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来栖 良(くるす りょう、1919年1月8日 - 1945年2月17日)は、日本の陸軍軍人、戦闘機操縦者。最終階級は陸軍技術少佐。 == 経歴 == 外交官である父・三郎と、アメリカ人である母・アリスの三兄弟の長男としてアメリカのシカゴに生まれ育つ。アメリカ滞在時は、「ベア」の愛称で呼ばれていた。1927年(昭和2年)に日本に帰国し、暁星中学校を経て、1937年(昭和12年)に横浜高等工業学校に入学。高工時代はラグビー部のキャプテンを務めていた。1940年(昭和15年)3月に同校機械科を繰上げ卒業し、翌4月に川西航空機に入社した。 その白人の血が色濃く出た混血(ハーフ)の容貌ゆえに、普段から強い偏見やいじめに遭っていたが、高工時代や陸軍将校時代はその人柄の良さも相まり、周りから容貌について揶揄されることは無く、本人も弱音を漏らす事は少なかった。また、その日本人離れした端正で色白な容貌と175cmの長身から、待合茶屋の芸妓達からは大変な人気があり、満州出張時には現地のロシア人ホステスから同じロシア人と間違われたり、フランスを旅行している最中には、現地人から俳優になるよう誘われたこともあったという。 学校卒業者のため徴兵され、1941年(昭和16年)1月に帝国陸軍の第8航空教育隊に入営。高工時代に航空工学を専攻していたこともあり、航技見習士官採用試験を受験しこれに合格。陸軍航空技術学校を経て、3月に見習士官たる陸軍航技曹長となり第1陸軍航空技術研究所附、同年6月、陸軍航技少尉に任官した。当時、陸軍は航空エンジニアとテスト・パイロットを融合させた、エンジニア・パイロットの育成をしており、同じ横浜高工出身の航技将校であり、既にエンジニア・パイロットであった親友・畑俊八〔畑俊六元帥陸軍大将の長男。〕(最終階級陸軍技術大尉)の薦めもあり来栖はこれに志願、特別操縦学生として1943年(昭和18年)12月、熊谷陸軍飛行学校にて第92期操縦学生らと共に訓練を受け1944年(昭和19年)1月に卒業。その素質から飛行分科「戦闘」のエンジニア・パイロットとして多摩飛行場(福生飛行場)の陸軍航空審査部飛行実験部戦闘隊に配属される。 航空審査部において来栖は名立たるエースや超ベテラン・パイロットと肩を並べ各種実験の職務にあたり(航空審査部はその職務の性質上、日本軍航空部隊トップ・クラスの人材が集う官衙であり、空中勤務者には一例として荒蒔義次・坂井菴・岩橋譲三・黒江保彦などが在籍していた)、そのアメリカ生まれの語学力を活かし、B-29の英語マニュアルの翻訳も行っていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「来栖良」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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