|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 東 : [ひがし] 【名詞】 1. east ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) ・ 王国 : [おうこく] 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country
東ゴート王国(ひがしゴートおうこく、Ostrogoths、またはEastern Goths、497年 - 553年)は、大王テオドリックによって建国された東ゴート族の王国。首都はラヴェンナ。東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの同盟により、西ローマ帝国滅亡後、イタリアのほぼ全域を支配下においた。 テオドリックの治世において、東ゴート王国は西ローマの政治機構を再整備し、それまでのローマ法を遵守しつつ新たな国家の構築が進められた。しかし、テオドリックの死後、後継者問題や宗教対立によって国内は混乱しはじめ、ローマ帝国の再統一を進めるユスティニアヌス1世がこれに乗じて東ゴート王国に軍を派遣。東ゴート王国はこれに屈服して滅亡した。 王国としては短命であったが、ローマ帝国末期から続く戦乱の中にあって、諸外国と政治的・軍事的均衡を保ち、つかの間ながらイタリア半島にゴート人とローマ人による共存と平和を実現した。 == 歴史 == === 王国の成立 === 東ゴート王国の建国は、476年に西ローマ帝国が滅びたことに始まる。ゲルマン民族の一派でスキリア族の出身であった西ローマ帝国の親衛隊長オドアケルは、宰相の地位に収まっていたオレステスを討伐、彼の子で皇帝となっていたロムルス・アウグストゥルスを廃位した。 オドアケルは東ローマ帝国の皇帝ゼノンとの交渉により西ローマ帝国の宰相としての地位を得、またヴァンダル王国との折衝ではシチリア島の返還に成功、西ゴート王国は南プロヴァンスの割譲によって国境線問題を解決するなどの成果を収めた。しかし、対外的な成功を収めたオドアケルは次第に東ローマ帝国の内政に干渉するようになり、公然と反ゼノン派を支持するようになった。このためゼノンは東ゴート族の王テオドリックと同盟を結び、イタリア遠征とその統治を約束した。 東ローマ帝国からの正式な要請を受けたテオドリックは、488年、民族を引き連れてモエシアを出立した。489年8月28日、イゾンツォ川に到達したテオドリックの軍は、オドアケルの派遣した軍と衝突、このイゾンツォの戦いでテオドリックは勝利を収め、翌月にはウェロニア(現: ヴェローナ)に到達した。 ヴェローナのオドアケル軍に勝利したテオドリックは、続いてメディラヌム(現: ミラノ)を占拠、当地でのオドアケル側軍事長官であったトゥファを味方に引き入れることに成功した。しかし、テオドリックの命でラヴェンナ攻略に向かったトゥファは再度寝返り、テオドリックの軍をティキヌム(現: パヴィーア)に後退させ、オドアケルの援軍とともに市を包囲した。 490年、西ゴート王国の王アラリック2世の援軍を得たテオドリックは、ティキヌムを包囲したオドアケルの軍勢を放逐すると、イタリア各地を占領、逆にオドアケルが籠城するラヴェンナを包囲した。海上を全面封鎖され、陸戦でも戦果を挙げられなかったオドアケルは、493年3月5日、ラヴェンナ司教ヨハネスの仲介により降伏した。テオドリックは彼を謀殺し、イタリア王に即位。東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世は、497年に王位の認可を下し、東ゴート王国が成立した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東ゴート王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|