|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 東 : [ひがし] 【名詞】 1. east
ドイツ民主共和国マルク(ドイツ語:Mark der DDR)は旧ドイツ民主共和国(東ドイツ)の通貨単位。通貨補助単位はペニヒで、1マルク=100ペニヒ。記号はM。 日本語では一般に東ドイツマルクと呼ばれるが、西ドイツ及び統一ドイツのドイツマルクと異なり、ドイツ語では一般に「ドイツ」に当たる言葉はマルクの前に付けない。その事からオストマルク(Ostmark / Ost-Mark。"ost"は「東」を意味する)の用語が最も広く使用された。 == 歴史 == 1948年6月20日、第二次世界大戦後にドイツ西部地域(1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が発足)を占領していたアメリカ合衆国を中心とする連合国が通貨改革を実施し、戦前から使用されたライヒスマルク、及びさらに以前のレンテンマルクを新規のドイツマルク (Deutsche Mark, DM) へと強制的に切り替えた。ドイツ東部を占領し、分断されたドイツ西部の資本主義化・反共化を警戒するソヴィエト連邦は分断固定化につながるこの措置に反発したが、西部地域で流通できなくなった旧マルクは東部地域に大量に流れ、インフレーションが突発した。この緊急対応としてソ連は同年7月24日に独自の通貨改革を実施し、ドイツ発券・振替銀行(:de:die Deutschen Notenbank、後のドイツ発券銀行)を設立して、独自の「ドイツマルク」 (Deutsche Mark der Deutschen Notenbank, DM) を発行した。この一連の措置は、混乱するドイツ経済を戦後復興に向かわせる一助となった反面、冷戦によるドイツの東西分断を固定化し、同年にソ連によるベルリン封鎖を引き起こした。 その後、この「ドイツマルク」は1949年10月3日に旧ソ連占領地域に設立されたドイツ民主共和国(東ドイツ)に継承され、公定通貨として発行が続けられた。1964年8月1日には「マルク(ドイツ発券銀行マルク)」 (Mark der Deutschen Notenbank, MDN) と改称され、1968年1月1日からはドイツ発券銀行をドイツ国立銀行 (:en:die Staatsbank der DDR) に統合して通貨名も「マルク(DDRマルク)」 (Mark der Deutschen Demokratischen Republik (auch Mark der DDR), M) となったが、その価値は変わらなかった。1972年に東西ドイツ基本条約が結ばれ、両国の共存を前提として西ドイツとの関係がようやく安定したが、2つの「マルク」が存在する事は変わらなかった。東ドイツも戦争の荒廃から立ち直って、社会主義国では優等生と表されるほどの経済成長を続けていたが、「奇跡の復興」と称賛された西ドイツとの格差は大きく開いており、アメリカドルに次ぐ国際通貨として広く流通する西ドイツのマルクと区別するため、東ドイツのマルクは「DDRマルク」、あるいはドイツ語の東 (Ost) から「オストマルク」の呼称が定着した。 1989年、東欧革命で従来の閉鎖的な社会主義独裁体制を放棄した東ドイツ政府が国境の全面開放を決定し、ベルリンの壁が崩壊すると、東西間の交流は一気に拡大した。それまで厳重だった通貨管理は自由化され、東ベルリンをはじめとした東ドイツ国内にはドイツマルク(西ドイツマルク)が大量に流通した。一方、東ドイツマルクは西ドイツ側ではほとんど通用せず、東ドイツ国民は銀行で不利なレートで手持ちの東ドイツマルクをドイツマルクに替えてから国境を越えた。 この東ドイツの新たな混乱は、ドイツ再統一への気運を一気に高めた。1990年3月18日、東ドイツの人民議会選挙では西ドイツの各政党からの支援が認められたが、西ドイツのヘルムート・コール首相はドイツキリスト教民主同盟 (CDU) の同名党 (ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)) の支援策として、実勢よりも東側に優位なレートでの通貨統合の実施を公約として東ドイツ国内を遊説した。これが成功して選挙ではCDUが勝利し、再統一への道が開かれた。同年10月3日の再統一に先立ち、7月1日に東ドイツマルクからドイツマルクへの通貨交換が行なわれ、東ドイツマルクはその役割を終えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東ドイツマルク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|