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東フランク王国(独:Ostfrankenreich)は、843年のヴェルダン条約によって成立した王国。 == 概要 == ルートヴィヒ1世の死後、息子ルートヴィヒ2世が843年、ヴェルダン条約によりフランク王国東部を継承した。中部フランク王国の後退の際、メルセン条約により西フランク王国との間で国境を定め、ロタリンギア(ロレーヌ周辺地方)を獲得した。 ルートヴィヒ2世の子カール3世は881年、西ローマ皇帝として戴冠し、884年には西フランク王を兼ねて帝国を再統一したが、887年にはノルマン人の侵入により廃位され、以降「西ローマ帝国(フランク王国)」の統一は永遠に失われることになった。その後、カール3世の甥アルヌルフは891年のルーヴァンの戦いでノルマン人を撃退し、896年、西ローマ皇帝として戴冠した。 911年、ルートヴィヒ4世の死により東フランク王国におけるカロリング朝は断絶した。すでに919年には東フランク王国の王権はフランク族の手を離れたため、単に「王国」と呼ばれるようになり、その王も単に「王」とのみ呼ばるようになった。962年にオットー1世がローマ皇帝ともなるが、この時点では「王国」と「帝国」との関係は不明瞭であった。「王国」は、やがて11世紀以降の叙任権闘争の中でドイツ王国と呼ばれるようになり、神聖ローマ帝国を構成する3王国(ドイツ王国、ブルグント王国およびイタリア王国)の1つとして位置づけられることとなる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東フランク王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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