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牛久保六騎(うしくぼろっき)は、戦国時代の東三河地方の牛久保城主牧野氏に参集していた寄騎衆の6氏をあらわす用語。「牛窪記」〔「牛窪記」は国書刊行会(復刻版・1980年刊)の『三河文献集成』・『近世三河地方文献集』、または塙保己一 編 『続群書類従 訂正3版 第21輯上』(1911年、続群書類従完成会刊)等に所収。〕(江戸時代中期成立の軍記物)の記述中に現れる 「牛窪記」〔下記参考文献の1、牛窪記・巻之上(p-241)→ 「… 城ヲ御築キアルベキ由、牛久保六騎十七地侍衆ニ仰付ラレ …」。〕は、その構成メンバー6氏の姓氏を具体的には明示していないが、同文献中に登場する東三河の司頭とされる牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧 〔「牛窪記」は東三河司頭として7氏を記すが、牧氏は真木氏もしくは牧野氏と重複と考えられる(「… コノユヘニ、牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣・牧等ノ人々、東三河ノ司頭ト定ム。」→下記参考文献の1、p-239、牛窪記・巻之上 「保成繁昌事付須山軍慮事」)。〕 の各氏が該当すると推測されている〔吉田城築城のくだりで、牛久保六騎地侍十七人衆と初登場するが、以後、牛久保六人の衆、六人衆、牛久保衆など、牛窪記内で、呼称が一定していないが、文意から牧野・岩瀬・野瀬・真木・山本・稲垣の六氏を指すと考えられる。〕。彼らは天文年間には東三河に進出してきた戦国大名の今川氏(駿河方)に属していたが、今川義元の死後は寄親の牧野氏に先んじて徳川氏と和睦、牛久保牧野氏の徳川方帰属の仲立ちをしたとされる。 == 概要 == 永禄3年(1560年)桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にすると、西三河の岡崎城主徳川家康は衰えがみえた今川氏から独立し、永禄4年(1561年)より、今川氏(駿河方)の勢力圏であった東三河に進攻した。東三河に位置する牛久保城主・牧野氏及び牛久保六騎は今川氏の勢力として初めはこれに強く抵抗したが、東三河において今川氏が敗色濃厚となった永禄8年(1565年)より、牛久保六騎は城主牧野氏に先んじて徳川方と和睦した。翌永禄9年(1566年)には城主牧野成定を説得して、同5月、成定の和睦・開城を実現し、家康より牛久保衆の掌握を命じられた(下記判物 )。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「牛久保六騎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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