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盛厚王(もりひろおう、1917年5月6日 - 1969年2月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。東久邇宮稔彦王第一王子で、母は明治天皇第九皇女聰子内親王。弟に師正王、粟田彰常侯爵、多羅間俊彦がいる。 陸軍での階級は陸軍少佐。勲等は勲一等。なお、盛厚王自身は「東久邇宮」を継承してはいないが、慣例に従い「東久邇若宮」と呼ばれることもあった〔1943年12月22日 読売新聞「多摩陵に御結婚を御奉告 東久邇若宮同妃両殿下」〕。 == 生涯 == 学習院、陸軍士官学校予科を経て1937年6月陸軍士官学校を卒業、同年8月陸軍砲兵少尉に補任され、野戦重砲第1連隊附を命ぜられ、陸軍将校として勤務する。1939年、同連隊の第1中隊長時代にノモンハン事件に動員され、7月18日に戦場に着任したが、戦況が悪く、宮内省の属官が戦死したことなどもあり、7月27日には8月の定期異動を待たずに戦場離脱に至った〔『ノモンハンの夏』、半藤一利、文春文庫、2001年、p.312〕。1943年10月30日、昭和天皇第一皇女の照宮成子内親王と結婚。 その後、陸軍砲工学校、陸軍大学校を経て、第36軍情報参謀を任ぜられるが、任務中に終戦を迎えた。1946年、一般受験生に混じって東京大学を受験したが不合格となり、「昔なら無条件入学なのに」と話題となる〔河原敏明『天皇家の50年』p.160〕。 1947年10月14日に皇籍を離脱し、東久邇盛厚と称することとなる。皇籍離脱後、今度は聴講生として東京大学経済学部に3年間学び〔、民間人として再出発する。北海道炭礦汽船社長室勤務の後帝都高速度交通営団監事等を務めた。また、1959年には日本狆クラブ会長に就任する。成子夫人との間に5子がいるが、1961年7月23日に死別。その後寺尾孝吉の長女:佳子と再婚し、2子がある。 1969年に52歳で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「盛厚王」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Morihiro Higashikuni 」があります。 スポンサード リンク
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