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東亜紡織楠工場 : ミニ英和和英辞書
東亜紡織楠工場[とうあぼうしょく くすこうじょう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
東亜 : [とうあ]
 【名詞】 1. East Asia 2. the Orient 
紡織 : [ぼうしょく]
 【名詞】 1. spinning and weaving 
: [おり]
 【名詞】 1. weave 2. weaving 3. woven item
: [くすのき]
 【名詞】 1. camphor tree 2. cinnamonum camphora 
: [たくみ]
  1. (n,adj-na) (1) workman 2. artisan 3. mechanic 4. carpenter 5. (2) craft 6. skill 7. (3) means 8. idea
工場 : [こうじょう, こうば]
 【名詞】 1. factory 2. plant 3. mill 4. workshop 
: [ば]
 【名詞】 1. place 2. field (physics) 

東亜紡織楠工場 : ウィキペディア日本語版
東亜紡織楠工場[とうあぼうしょく くすこうじょう]
東亜紡織楠工場(とうあぼうしょく くすこうじょう)は、現在のトーア紡マテリアル四日市工場であり三重県四日市市楠町の南川地区に立地している。旧中央毛糸紡績株式会社。東亜紡織四日市工場や東亜紡織楠工場などの工場名もあった。化学繊維を生産している。従業員135人)〔新編楠町史四日市市楠総合支所2005年249頁 〕 1958年(昭和33年)から合織繊維を生産している。1953年(昭和28年)に男性従業員が268人、女性従業員が1941人、臨時工が65人、合計従業員が2274人の大工場であった。

==歴史==
岩井勝次郎社長は新工場の建設に当たりミュールびきの高級細番手の輸出用梳毛糸を生産する理想的な近代工場の出現を企図した。工場建設要旨は以下であった。
①60番〜70番メリノ羊毛をもってトップ月生産25万ボンドを製造する。将来は3倍程度の増大を見込むこと。
②前紡3組をもって生産、内2組は60番双糸織糸(場合により48番手ノメリヤス糸の紡績工場にする)残り1組は32番双糸のメリヤス糸(場合により48番手のメリヤス糸も紡績工場)にする。〔東亜紡織70周年記念誌39頁 〕
③精紡機はミュールを使用するがリングの場合も考慮する。
④建設予算は4195000円とする。
*敷地は62598坪(登記料・埋め立て費及び付帯工事費共)139281円。
*建物・本館は6356坪。
*倉庫は422坪(坪あたり100円)。
*汽缶室・変電所は88坪(坪あたり180円)。
*付属建物は3400円。
*坪主の他区域は516坪(坪当り80円)。
*調気等諸装置は、133520円。
*小計は、1132251円。
*引き込み線・井戸・煙突等構築物は、172051円。
*機械・船来品1式は、8266101フラン為替515円)。
*国産品1式は277050円。
*針布は33180円。
*諸掛関税等は441092円。
*小計は2323210円。
*その他動力・電灯・蒸気装置外1式は422260円。
*合計419万4553円であった。〔東亜紡織70周年記念誌40頁 〕
昭和7年〜昭和8年は日中戦争による戦争景気羊毛工業界の好況と、羊毛相場の低落によって原料安製品高の黄金期を迎えた。中央毛糸紡績で主力の大垣工場の増設の可能性余地は乏しく、第2工場の必要性が急速に高まっていた。
候補地として岐阜県笠松三重県桑名・三重県野田(四日市市内)・楠・沼津などが挙げられていたが、四日市港は昭和7年10月に豪州航路が開設されて、豪州航路の第1船のメルボルンが入港、羊毛741俵の陸揚げを行った。野田と楠の2ヶ所に候補地が縛られて、伊勢電鉄の駅に近い事や水質・水量に恵まれることから楠誘致が優位となった。最終的には岩井勝次郎社長が昭和7年12月1日に現地を見て決定となった。
日本有数の大毛糸工場の中央毛糸紡績楠工場が誕生した。杉野市太郎区長岩田久蔵区長など楠村民の協力があった。 岩井社長のたえず「世界一の毛糸を作れ」の考えに基づき、ミュールびきの高級細番手の輸出用梳毛糸を生産する理想的近代工場を企画して四日市工場と命名した(戦後復元の際、楠工場と改称した)。
上村工場長代理は36歳、市川事務主任は30歳と若い新進気鋭の人材を抜擢した。敷地の伊勢電鉄楠駅の西側59229坪の工場用地、東側海岸寄りに社宅用地4136坪を買い入れた。1坪は1.67円であった。建築は東畑建築事務所の設計監理の下に伊藤工務店の担当と決まった。紡機はフランスアルサス社にカード2列、コーマ25台、前紡3列、ミュール38台を、川西機械製作所を洗毛機2列、撚糸機29台をそれぞれ発注した。新工場の要員は大垣工場で養成して待機させて、機械の入手状況により遂次四日市工場へ転勤させる態勢を整えた。5月着工の本館建設工事が進行中に将来の機械輸入が難しくなるとの情勢から、当初予定のミュール38台が14台の追加で合計52台となった。〔東亜紡織70周年記念誌41頁 〕12月には工場本館の落成を待たずに機械備え付けが開始された。
昭和8年5月に地鎮祭、紡機はフランスアルザス社製で技師が来日して設置した。昭和9年4月に一部操業開始、5月には全面操業となった。四日市工場が稼働した昭和9年に洋服用毛織物の需要は内需・外需ともに増大して、日本の羊毛工業は本格的な発展期を迎えていた。愛知県尾西市一宮市の毛織業者は既にモスリンや着尺セル機械から服地用毛織物生産に移行しており、織糸の需要が増大していた。毛糸紡績各社はそのため設備を増強して、市販用梳毛糸の生産を増やし始めた。四日市工場は幸先良いスタートを切った。〔東亜紡織70周年記念誌42頁 〕
東洋紡績鐘紡倉敷紡績・大日本紡績(現在のユニチカ)・錦華紡績(現在の大和紡績)なども昭和初期に羊毛工業に進出して梳毛紡績の工場を新設または買収している。昭和16年6月に中央毛糸と合併した錦華毛糸株式会社も昭和9年1月に設立されている。東亜紡織は岩井商店の輸出用ブランドKB416で各国への輸出増強に努めている。〔東亜紡織70周年記念誌43頁 〕大規模梳毛工場が三重県に完成して稼働を開始した。洋服用毛織物の需要は日本国内海外共に増大していた。
昭和11年6月に第1次増設が完了した。昭和12年11月に第二次増設が完了した。昭和13年8月2日の豪雨災害の時には工場西北部の鈴鹿川派川の堤防が決壊した。濁流は工場と社宅を襲った。工場は床上1m浸水して社宅も被害を受けて、工場は操業を休止して東洋紡績楠工場の社員の援助や従業員の努力で11月上旬に完全復旧した。 〔新編楠町史四日市市楠総合支所 2005年241頁 〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東亜紡織楠工場」の詳細全文を読む




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