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秋元 不死男(あきもと ふじお、1901年11月3日 - 1977年7月25日)は、神奈川県出身の俳人。本名は不二雄。前号は東京三(ひがし きょうぞう)。別号に秋元地平線。島田青峰に師事し「土上」「天香」に参加。新興俳句運動に加わり、京大俳句事件に連座して投獄される。戦後は「天狼」参加を経て「氷海」を創刊・主宰。劇作家の秋元松代は妹。息子の秋元近史は『しゃぼん玉ホリデー』を手がけたテレビディレクター・プロデューサー。 == 経歴 == 神奈川県横浜市生まれ。漆器の輸出商の次男で、長男は不死男が生まれた日に病没。他に姉一人、弟・妹が二人ずついたが、父は不死男が13歳のときに病没。以後母親が和裁の賃仕事や夜店の行商をして家計を支えた。1916年、横浜市第二日枝小学校高等科を卒業、横浜火災海上保険会社に入社。社内に渋柿派の俳人守能断腸花がおり、俳句を教わったがこのときは長続きせず。勤めに通いながら一時夜間学校にも通い、学業を断念したのちも文芸書を耽読して過ごした。1920年、同人誌「花路」を創刊。この頃白樺派に傾倒、新しき村の第二種会員となる。1927年、同人誌「青い花」を創刊。当時は詩や短編小説を書いていた。 1929年、嶋田的浦が横浜海上火災保険に入社して同僚となり、翌年、的浦に兄・嶋田青峰を紹介され師事、青峰の主宰する「土上」に投句を開始する。1930年7月、「土上」にABCの筆名で「プロレタリア俳句の理解」を発表、『読売新聞』文芸部長の千葉亀雄により評価され、執筆意欲を高めた〔村山(1985):100 - 104ページ〕。その後実作と評論の両面で活躍、「土上」を代表する俳人に成長する〔三谷(1966):130ページ〕。1931年、清水阿喜(清水径子の姉)と結婚。1934年、新興俳句運動に加わり西東三鬼らと交流、新興俳句系の連絡機関「新俳話会」の幹事を務め、戦火想望俳句を作る。1940年、「土上」終刊、三鬼らと「天香」を創刊。1941年、治安維持法違反の名目による新興俳句弾圧事件が始まり、不死男は2月に検挙、1943年2月に保釈されるまで獄中にあった。この検挙により職を失う。 戦後、1946年に平和と民主主義を掲げる新俳句人連盟の創立に関わり、同連盟幹事長に就任するが、運営方針を巡って対立が起こり脱退。1947年、俳号を秋元不死男に改め、現代俳句協会設立発起人、のち幹事長を務める。1948年、山口誓子の「天狼」創刊に参加。1949年、「天狼」東京句会を中心にして「氷海」創刊、のち主宰。1956年、古沢太穂、小林康治、飯島草炎らとともに横浜俳話会を発足。1961年、現代俳句協会を脱退、俳人協会設立に参加。1968年、句集『万座』にて第2回蛇笏賞を受賞。1971年、直腸癌の摘出手術を受ける。1976年2月に再入院し、7月25日、入院先で逝去。享年75。忌日は「甘露忌」と呼ばれる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「秋元不死男」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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