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東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。 1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。2015年3月31日時点で、国宝87件、重要文化財634件を含む収蔵品の総数は116,268件で、これとは別に、国宝56件、重要文化財256件を含む総数3,064件の寄託品を収蔵している〔『国立文化財機構概要 2015』 p.5 〕。このうち陳列総件数は約7,200件である〔平成27年度独立行政法人国立文化財機構に係る年度計画 p.3 〕。2014年度の来館者数は約191万人〔。 == 沿革 == === 草創期 === 1872年(明治5年)3月、その前年に設置された文部省博物局により、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催された。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりであった。東京国立博物館はこの年を創設の年としている。展示品は、翌1873年(明治6年)開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心であった。当時の錦絵〔「古今珍物集覧 」(一曜斎国輝筆、明治5年(1872年)、同館蔵)など。〕に見られるように、会場にはガラスケースが所狭しと置かれ、書画、骨董、動植物の剥製や標本などが並べられており、展示品のなかでは名古屋城の金鯱(しゃちほこ)が人気を集めた。この博覧会は3月10日から20日間の会期を予定していたが、あまりの人気に入場制限をせざるをえないほどで、会期を再度にわたり延長し、4月末日まで開催された。総入場者数は15万人と推定されている。〔(井内、1992)、p.4〕〔(大隅、1992)、p.6〕〔『東京国立博物館 目でみる120年』、p.5〕 1873年(明治6年)、「文部省博物館」は太政官正院の「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、場所も湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転した。この年は4月15日から3か月半にわたり、博覧会が開かれ、博覧会終了後は毎月1と6の日に公開された。以後、上野に新しい博物館が建設される1881年までの展示はこの内山下町で行われた。なお、この当時の博物館は動物、植物、鉱物などの標本も収集展示の対象であった。〔(大隅、1992)、p.8〕 博物館の設置後まもない1872年8月、文部省により湯島聖堂の大講堂に書籍館(しょじゃくかん)が設けられた。これは、紅葉山文庫本、昌平坂学問所本など、旧幕府からの引き継ぎ書籍を収蔵するもので、日本における公立図書館の端緒である。書籍館は1874年に浅草蔵前に移転して「浅草文庫」と称した。この浅草文庫の蔵書約14万冊は、一部は内務省に移管されたが、大部分は1882年、上野に移転開館した博物館に引き継がれて、東京国立博物館の蔵書の基礎となった。〔『東京国立博物館 目でみる120年』、p.23〕 博物館設置の端緒となったウィーン万国博覧会は1873年5月1日から11月2日までの会期で開催。日本館には陶磁器、七宝、漆器、染織品などの伝統工芸品が展示され、日本庭園も造られた。日本館は当時の欧州における日本ブームもあり、好評であったと伝えられる。翌々年の1875年、博覧会事務局副総裁の佐野常民は大部のウィーン万国博覧会報告書を提出し、その中で大東京博物館設置の必要性を力説した。〔『東京国立博物館 目でみる120年』、p.15〕〔(大隅、1992)、p.8〕 1875年(明治8年)、「博覧会事務局」はふたたび「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。「博物館」は一時「内務省第六局」と改称されたが、翌1876年(明治9年)、再度「博物館」に改称。同年、町田久成が博物館長に任命された。薩摩藩出身の官僚であった町田は、明治時代初期に博物館設置や文化財保護に尽力した人物である。東京国立博物館では彼を初代館長としており、博物館の裏庭には町田の顕彰碑が建立されている。なお、博物館の所管官庁は、1881年(明治14年)に農商務省、さらに1886年(明治19年)に宮内省へと変わった。〔(井内、1992)、p.5〕〔(大隅、1992)、pp.8 - 9〕 1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第1回内国勧業博覧会が開催された。これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って開催されたもので、この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で最初に「美術館」と称した建物として知られる。この「美術館」は、博覧会終了後も使用することを前提として煉瓦造で建設された。初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であり、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園への移転を陳情していたが、この1877年、太政官より上野移転の裁可を得た。〔(井内、1992)、p.5〕〔(藤岡、1992)、p.15〕〔『東京国立博物館 目でみる120年』、p.47〕 1881年(明治14年)、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の本館が完成。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計であった。この本館は、同年上野で開催された第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)3月から博物館の本館として使用されるようになった。4年前の第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用されたが、関東大震災で本館・2号館共に損壊し、現存しない。上野での開館式は1882年3月20日、明治天皇の行幸を得て行われた。博物館とともに設置準備が進められていた附属動物園(恩賜上野動物園の前身)もこの時に開園。やや遅れて同年9月20日からは前述の旧浅草文庫の書籍の公開が開始されている。このように、初期の博物館は、美術館、自然史博物館、動物園、図書館を含む総合文化施設であった。〔『東京国立博物館 目でみる120年』、p.61〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京国立博物館」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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