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東京文献学派(とうきょうぶんけんがくは)は、日本における東洋史学の学派の一つで、1908年以降、東京帝国大学文学部東洋史学科を中心にして形成された主に東洋史学のグループを指す。 ==誕生== 1908年1月、東京帝国大学文科大学教授であった白鳥庫吉と後藤新平の個人的繋がりから設立された満州朝鮮歴史地理調査部(略語「歴史地理調査部」)が〔小林英夫『満鉄調査部の軌跡』、藤原書店、2006年。〕、のちに東京文献学派と呼ばれる潮流を形作ったとされる。この歴史地理調査部には、後藤新平の支援により、日本における文献学的な東洋学の基礎作りをめざし発足した。部長を務めた白鳥庫吉のほか、津田左右吉(東洋史)、池内宏(東洋史)、松井等(東洋史)、箭内亘(東洋史)ら創成期の東洋史学者が多数参加した。1910年に、白鳥庫吉は「倭女王卑弥呼考」を著し、「邪馬台国北九州説」を主張し、同時期に「東の白鳥庫吉、西の内藤湖南」、「実証学派の内藤湖南、文献学派の白鳥庫吉」と並び称せられた。こうした基礎の上に、白鳥庫吉を始祖とする東京文献学派は徐々に形成されていった。歴史地理調査部は、1914年に消滅し、のちに東京帝国大学文科大学(のちに東京大学文学部と改称)に移管され、調査事業が継承され、学派の拠点となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京文献学派」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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