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東京競馬場(とうきょうけいばじょう)は、東京都府中市にある中央競馬の競馬場である。所在地から府中競馬場(ふちゅうけいばじょう)とも通称される。施行者ならびに管理者は日本中央競馬会である。 敷地内施設として、JRA競馬博物館・乗馬センターの他、馬車(ホースリンク)・水遊び広場やミニ新幹線など遊園地のような遊具やイベントが行われている。 == 歴史 == 東京競馬場の前身は目黒競馬場である。1907年(明治40年)に約65000坪の敷地面積の目黒競馬場が開設されたが、その後目黒競馬場周辺の都市化が進み、借地が大部分だった目黒競馬場は借地料の増加に加え、馬券発売による競馬人気で手狭になったにもかかわらず施設拡張の余地がなかったため移転を余儀なくされた。小金井や羽田、世田谷なども移転先候補地となったが、府中町(当時は町)が競馬場誘致活動に力を入れ、地形もよかったので府中に決定し1933年(昭和8年)11月8日東京競馬場は開場した〔府中市1974、587-611頁。〕。10日後の11月18日に東京競馬場での初めての開催を行い、目黒競馬場は完全閉場となった(目黒記念は目黒競馬場にちなんでいる)。 開場時の東京競馬場のレースは春・秋の2回開催で各季8日間の開催であった。手狭だった目黒競馬場が1場所8日間の開催で最高で観客8万人あまりだったが、移転して広大になった東京競馬場第一回開催では8日間で10万人を超えた。記念すべき東京競馬場の初開催は1933年(昭和8年)11月18-20,25-26,12月1-3日である〔日本中央競馬会1968、132頁。〕。東京優駿日本ダービーは第三回1934年(昭和9年)から東京競馬場で行われ、開設時の重賞競走としては帝室御賞典(今の天皇賞)や農林省賞典、目黒記念などが行われていた〔日本中央競馬会1968、144頁。〕。 1937年(昭和12年)全国的な競馬施行団体である日本競馬会が設立された。これに伴って東京競馬場のみの競馬運営体の東京競馬倶楽部は解散して日本競馬会に合流し、東京競馬場は日本競馬会東京競馬場となる〔日本中央競馬会1968、134頁。〕。 1940年(昭和15年)の開催が決まっていた東京オリンピックでは、馬事公苑や中山競馬場とともに馬術競技で使用されることとなっていたが、日中戦争の影響で東京オリンピックの開催そのものが中止となった。 1943年(昭和18年)12月、政府は競馬を中止し、1944年(昭和19年)以降は東京・京都でのみ能力検定試験を行うことにした。したがってこの年の日本ダービーや横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)は馬券は売らず観客は入らないなかで、関係者のみが見つめる前でおこなわれている。中山競馬場で行われていた重賞レース(中山記念や中山四歳牝馬特別など)も東京で行われた〔日本中央競馬会1968、141頁。〕。 1944年(昭和19年)5月 横浜競馬場閉鎖にともない横浜農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)が東京競馬場で行われる。横浜農林省賞典四歳呼馬は昭和22,23年も東京で行われ、昭和24年から中山に移って皐月賞になる〔日本中央競馬会1968、243頁。〕。 1945年(昭和20年)東京競馬場は閉鎖される。戦時中の食糧難の為に競馬場は全面が畑になり、馬場はサツマイモ畑になっていた〔日本中央競馬会1968、142頁。〕。 1946年(昭和21年)軍から返還され10月17日から競馬は再開される〔。 1947年(昭和22年)それまで阪神で行われていた優駿牝馬競走(オークス)が東京で開催される〔。 1948年(昭和23年)日本競馬会は独占禁止法によって解散。日本競馬会傘下の9か所の競馬場は国営競馬として再開する。東京競馬場は農林省管轄下になり国営競馬東京競馬場となる〔日本中央競馬会1968、143頁。〕 1954年(昭和29年)新競馬法によって日本中央競馬会発足、東京競馬場は日本中央競馬会東京競馬場となる〔。 1957年(昭和32年)11月19日1号館新館「万歳館」竣工。 1961年(昭和36年)2月26日ダートコースの使用が開始。 1968年(昭和43年)6月4日スタンド改築工事竣工。府中競馬正門前駅からの屋根付歩道橋を設置。 1981年(昭和56年)ジャパンカップ創設。2002年を例外として東京競馬場で開催される。 昭和の終りから平成の初めにかけて、武豊やオグリキャップなどの人気による空前の競馬ブームが起こり、1990年(平成2年)5月27日の第57回東京優駿(日本ダービー)当日には史上最高の入場者196,517名を集めた。 2000年(平成12年)に東京競馬場スタンド改築等施設整備計画を発表し、3期に分けての改築を行うことになった。2002年(平成14年)6月の第4回東京競馬終了後、馬場改修工事と2期スタンド工事に本格的に着手、その年の秋競馬は中山競馬場や新潟競馬場で代替開催された。1期スタンドはその年の10月に完成し、翌11月からパークウインズとして利用開始。その後馬場改修工事も終わり、2003年(平成15年)4月26日にリニューアルオープンした。以前のコースとの主な変更点は次のとおりである。 # ゴール板が移動し、ホームストレッチ(最後の直線)の長さが芝コースでは従来の500.4メートルから525.9メートルに延長された。 # 内枠の馬に対して危険・外枠の馬の不利が指摘されていた芝2000メートルのスタート直後のカーブが緩やかになった。ただし依然として、第104回天皇賞(1991年)においてメジロマックイーンが降着となったような事例に対する影響については様々な意見がある(第104回天皇賞を参照)。 # 各コーナーが以前よりも緩やかなカーブに変更された。 # 芝3400メートル、ダート1300メートル、2400メートルのコースを新設し、芝2200メートル、3200メートル、ダート1700メートル、2300メートルのコースを廃止した。 # 移動柵の名称をA1,A2,B,C→A,B,C,D,Eに変更した(ただし、Eコースは現在のところ使用されていない)。 # 障害コースのうち襷コースを廃止して、内馬場に勝馬投票券発売所を増設した(1998年秋から)。 2005年4月に完成したスタンド改修工事・第2期分では、パドックとレーストラックをつなぐ地下馬道が1階座席からガラス越しに見ることができるようになった(ホースプレビュー)。 2007年4月にスタンド改修工事・第3期分が終了。新スタンドが全面完成となった。新スタンドの名称は公募により決定し、富士山を眺望できるスタンドであることから「フジビュースタンド」と命名された。また、このフジビュースタンド完成を記念し、2007年の2回・3回の東京競馬では東京競馬場グランドオープンと銘打って、引退騎手によるエキシビションレース「ジョッキーマスターズ」をはじめ様々なイベントが行われた。 2008年2月3日・2月10日と2週連続で日曜日の開催が降雪の影響で中止され、それぞれ2月4日・2月11日に代替開催された。中央競馬における同一競馬場での2週連続開催中止は、こちらも降雪のため中止された1987年12月の中山2日目、4日目以来21年ぶり。 2014年2月8日・9日・15日・16日には、雪の影響により4日連続で開催中止。それぞれ2月10日・2月17日・2月18日・2月24日に代替開催される。中央競馬における4日連続の開催中止は史上初。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京競馬場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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