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東京高速鉄道 #(初代)利光鶴松が経営した電力資本・鬼怒川水力電気傘下の企業。1919年(大正8年)に都内の複数の地下鉄路線の免許を申請、1920年(大正9年)3月17日に新宿 - 大塚間の免許が交付されたものの、これを新宿から郊外方向へ延長する形で同じ鬼怒川水力電気傘下の小田原急行鉄道(現在の小田急電鉄)が設立される。 #(2代目)1934年(昭和9年)設立後、1938年(昭和13年) - 1941年(昭和16年)まで、現在の東京地下鉄(東京メトロ)銀座線の新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営していた東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)系の企業。(この項で詳述) ---- 東京高速鉄道株式会社(とうきょうこうそくてつどう)は、現在の東京地下鉄銀座線の新橋駅 - 渋谷駅間を建設・運営した鉄道事業者である。 ==経緯== もともと東京市(1943年(昭和18年)7月1日、東京府と合同して東京都になる)は、市内交通の公営主義に基づき地下鉄をも市営として建設する計画を持っていたが〔1925年(大正14年)5月16日東京市に対し地下鉄道敷設免許状下付(荏原郡目黒町-北豊島郡南千住町間、豊多摩郡渋谷町-北豊島郡巣鴨町間、豊多摩郡淀橋町-北豊島郡巣鴨町間、北豊島郡西巣鴨町-深川区西平井町間)「鉄道免許状下付」『官報』1925年5月18日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、予算の問題から実現が遅れていた。しかし一部の企業家は、東京地下鉄道が好成績を収めているのを見て十分な採算性があると考え、東京市の持つ地下鉄建設免許の譲渡を請願した。それを東京市が認めたため、1934年(昭和9年)9月5日、建設運営を行う会社として東京高速鉄道が設立された〔『地方鉄道及軌道一覧 : 附・専用鉄道. 昭和10年4月1日現在』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。当初は前年までに会社を設立することが免許譲渡の条件〔「鉄道敷設権譲渡許可」『官報』1932年10月5日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕〔『鉄道統計資料. 昭和9年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕とされていたが、資金が集まらなかったため延期され、東京横浜電鉄(現:東京急行電鉄)系列の総帥、五島慶太を発起人に加える形でようやく設立にこぎつけた。そのため、五島が経営の主導権を握ることになった。 譲渡された免許区間は渋谷 - 東京(丸ノ内)間と新宿 - 築地間〔『鉄道統計資料. 昭和7年度』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕であったが、東京高速鉄道は東京横浜電鉄のターミナルがある渋谷からの建設を開始し、1938年(昭和13年)11月18日、青山六丁目駅(現:表参道駅) - 虎ノ門駅間を開通させた〔「地方鉄道運輸開始」『官報』1938年12月6日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕(単線並列〔地下鉄運輸50年史P221〕)。この時、資金難からホームの長さを3両分にするなど、先行する東京地下鉄道や大阪市電気局(現:御堂筋線)とは違って建設コストを徹底的に削減して建設したため、1955年(昭和30年)5月に銀座線で4両編成での運行が開始された際、同社が建設した区間の駅に関しては浅草側の1両を締切扱いとし、その後ホームを延伸する工事をしなければならなかった。また新宿 - 四谷見附 - 築地間の路線(新宿線)に関しては、工期の短縮を理由として四谷見附 - 赤坂見附間に連絡線を設け、新宿 - 四谷見附 - 赤坂見附間を敷設して当面は渋谷線(渋谷 - 赤坂見附 - 虎ノ門 - 新橋間)への直通を行う形に計画を変更したため、赤坂見附駅は当初より新宿方面への分岐を考慮した上下二層構造とされた。車両の留置は、青山六丁目駅の渋谷寄りに、坑口付近より高架線にかけて行った(A線・B線とも、渡り線なし)〔地下鉄運輸50年史P221〕。 同年の12月20日には、渋谷線の渋谷駅 - 青山六丁目駅間が開業する〔「地方鉄道運輸開始」『官報』1939年1月13日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。この時、青山から渋谷方面へ地形に沿って地下で進むと急勾配が発生し、当時の電車の性能では登坂が不可能と判断されたこと、それに五島率いる東京横浜電鉄との接続を重視したため、当該区間は高架で建設され、東横百貨店(現:東急百貨店)の3階に乗り入れる形で東京高速鉄道の渋谷駅は設けられた。 東京高速鉄道渋谷線は虎ノ門駅から先は、当面の間新橋駅まで延伸し、東京地下鉄道線(この時点で新橋駅 - 浅草駅間が開業済み)と直通運転することを目論んでいた。しかし早川徳次率いる東京地下鉄道は京浜地下鉄道を設立し、新橋駅から品川駅まで延伸して京浜電気鉄道(現:京浜急行電鉄)との直通運転を行うことを計画していたことから、両者を同時に乗り入れさせるのはダイヤ的に困難だとして、これを拒否しようとした。その後、監督官庁の鉄道省が調停に入り、1935年(昭和10年)5月に両社が直通運転を行うという内容の協定が結ばれ、翌年には施工工事に関する協定も締結、問題は一段落したかに見えた。 しかしながら、その後も早川率いる東京地下鉄道側に東京高速鉄道への牽制的行動がなされたため、五島は早川との協調姿勢を対決姿勢へと転化し、京浜電気鉄道と東京地下鉄道の株式を押さえて京浜電気鉄道を支配下に置き、さらに東京地下鉄道を東京高速鉄道に合併させようとした。しかし、五島が押さえることのできた東京地下鉄道株式は35%に留まったため、五島派と早川派による経営権の争奪競争に発展。東京地下鉄道の従業員らも合併には猛反対していたこともあり、株主総会が両派それぞれ別の場所で開かれようとする異常事態に陥る。ついには当時の内務省が仲裁に乗り出し、五島・早川の両者が地下鉄事業から手を引くことを条件に調停を行って、議決権の棚上げも決められた。 その後も五島は東京高速鉄道取締役を退かず、東京高速鉄道側から東京地下鉄道に多くの役員を送り込んだため、事実上この競争は早川の敗北となった。またこれは、五島慶太の「強盗慶太」というあだ名を広めるひとつの要因ともなった。東京地下鉄道と東京高速鉄道のしこりは、営団成立後も両社出身の職員間の感情的な対立などの形で、戦後も長らく尾を引くこととなる。 1939年(昭和14年)1月15日、東京高速鉄道は虎ノ門駅から新橋駅への延伸を果たすが〔「地方鉄道運輸開始」『官報』1939年2月2日 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕、東京地下鉄道側は直通の準備ができていないことを理由に自社駅への乗り入れを拒否したため、東京高速鉄道は独自に建設していた折り返しホームを利用することになり〔先述の通り、東京高速鉄道は渋谷線(新橋駅 - 赤坂見附駅 - 渋谷駅)に続いて赤坂見附 - 新宿間の新宿線敷設を予定していたが、その全てを東京地下鉄道に乗り入れさせることは不可能であるため、渋谷線・新宿線の列車の一部を新橋駅にて折り返させる計画を立てており、その前提に基づいてこの頭端式ホームを建設していた(帝都高速度交通営団『営団地下鉄50年史(平成3年)』に基づく)〕、東京地下鉄道の駅への乗り入れが実現する9月までの8か月間は、2つの新橋駅が壁を隔てて対峙することになった。 1941年(昭和16年)7月4日、戦時中の交通事業再編・統制を行うための陸上交通事業調整法に基づき、東京地下鉄道と東京高速鉄道は、未成に終わりペーパー会社となっていた京浜地下鉄道とともに、帝都高速度交通営団(営団地下鉄)として統合された。 営団発足後の1942年(昭和17年)6月には、東京高速鉄道が新宿線として計画していた区間のうち四谷見附 - 赤坂見附間の工事が開始されたが、太平洋戦争の戦局悪化に伴い、1944年(昭和19年)6月に建設が中止された。戦後、地下鉄計画は都市復興も兼ねて見直しが行われ、この区間が丸ノ内線として開業をみるのは1959年(昭和34年)3月のこととなった。 東京高速鉄道が建設した新橋駅のホームは現存しており、車両留置や資材置き場などに活用されている〔戦後、東京高速鉄道が計画していた赤坂見附 - 四谷見附 - 新宿間の路線は営団丸ノ内線として実現したが、営団銀座線となった赤坂見附 - 新橋間へは乗り入れせず、独自に赤坂見附から霞ヶ関を経て東京駅へ向かうルートをとったため、東京高速鉄道が建設した新橋駅が旅客用に使用されることは、戦後を通じてなかった。〕。通常は一般の立ち入りは許可されていないものの、テレビ・雑誌などで「幻の駅」として度々紹介され、特別イベントで公開されることがある。なお、営団地下鉄時代にもこの種のイベントは開催された例があり、「幻の駅体験」として旧ホームに入線する列車を設定し、車内からホームを見物する機会が設けられていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東京高速鉄道」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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