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東 信二(あずましんじ、1951年11月24日 - )は日本の競馬評論家である。東京都出身。元騎手であり、日本中央競馬会(JRA)に所属していた。 == 経歴 == 1951年11月24日、東京都豊島区池袋に、7人兄弟の末子(姉5人と兄1人)として生まれる。生家は池袋駅の近くで自転車を預かる仕事と碁会所を営んでいた〔河村2003、38頁。〕。 少年時代は歌手を志し、中学校卒業を前にした進路決定の際に母親にそのことを打ち明けるが、姉に「あんたの声じゃ無理」と言われ、目標を騎手に切り替える。東には中学2年の時、林間学校で訪れた霧ケ峰高原の牧場で乗馬を経験し、夢中になったことがあった〔河村2003、40頁。〕。1967年(昭和42年)、長期騎手講習生として馬事公苑騎手養成所に入所。 3年間の講習を経て騎手試験に合格し、1970年(昭和45年)、中山競馬場白井分場の境勝太郎厩舎に所属する形で騎手としてデビュー。境には厳しく教育され、漫然と騎乗しているように見えると鉄拳制裁を受けたという〔河村2003、43-44頁。〕。同年3月22日、スミタマサルに騎乗し初勝利を挙げた。この年、同期の中で最多の15勝を挙げると、翌1971年(昭和46年)には34勝を挙げ、関東リーディング8位。この年の菊花賞でダイトモナークに騎乗し、史上最年少(当時〔後に武豊が記録更新。〕)での中央競馬クラシック競走出場を果たした〔河村2003、44頁。〕。 その後も関東リーディング10位以内に入る活躍を見せ、1973年(昭和48年)のスプリンターズステークスでは境の管理馬であるキョウエイグリーンに騎乗して重賞初勝利を飾った。 しかし、やがて小島太が境の娘婿になったことで厩舎の有力馬を小島に奪われるようになる。これにより東の年間勝利数は減少したが、初めて騎乗したアンバーシャダイで1981年(昭和56年)の有馬記念を勝つなど重賞で存在感を見せ、「代打男」と呼ばれるようになった〔河村2003、44-45頁。〕。 1987年(昭和62年)、周囲の勧めもあり、境勝太郎厩舎を離れフリーランス(厩舎に所属しない)の騎手となる。騎手生命のあるうちに自分の実力を試してみたいと考えての決断であったが、同時に「5年やって軌道に乗れなかったら、オレはダメかもしれない」という恐れもあったという〔河村2003、46頁。〕。同年、サクラスターオーで皐月賞と菊花賞を勝利するが、年末の有馬記念のレース中にサクラスターオーは左前脚を故障し、闘病の末翌1988年(昭和63年)5月に死亡。故障の瞬間、東は「オレの人生終わったな」と思ったという〔河村2003、46-47頁。〕。1990年(平成2年)以降、東の年間勝利数は10勝以下に低迷した。 1998年(平成10年)5月に騎手を引退。騎手生活の晩年は騎乗数の減少に苦しみ、「あいつに頼むくらいならオレを乗せろよ」と思うことも多かったという。馬に乗り続けたいという希望から調教助手への転身も考えたが、有力厩舎には新たに調教助手を雇用する余裕がなく、断念せざるを得なかった〔河村2003、47-48頁。〕。騎手としての通算成績は中央競馬5,293戦512勝(重賞21勝)〔、地方競馬17戦1勝であった。 引退後は競馬評論家に転身し、フジテレビやBSフジ制作の競馬中継において準レギュラー格の解説者として活躍している。フジテレビの「スーパー競馬」でGI開催時に解説を担当することが多かったが、『みんなのKEIBA』になったころの競馬番組は同じ元騎手で競馬評論家の岡部幸雄(2005年引退)や安藤勝己(2013年引退)の出演が多くなり、「BSフジ競馬中継」や福島・新潟開催の独自中継の側に出るようになっている。地上波では「NSTみんなのKEIBA」に主に出演。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東信二」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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