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東宝争議(とうほうそうぎ)は、1946年から1948年にかけて三次にわたり、日本の大手映画製作会社、東宝で発生した労働争議を指す。特に1948年の第3次争議は大規模なもので、最終的には撮影所の接収に警視庁予備隊および連合国軍の一員として日本の占領業務にあたっていたアメリカ軍までもが出動した。 == 事件概要 == === 背景 === 1945年(昭和20年)12月、東宝では、戦後の混乱と社会主義運動の高揚によって、東宝従業員組合(従組)が結成された。従組は全日本産業別労働組合会議にも加盟し、たびたびストライキを行った。今井正や山本薩夫など日本共産党員が戦争中から在籍するなど開放的な社風だったこともあって、労働運動は一挙に盛り上がり、従業員の九割、5600名の組合員を持つ巨大勢力となって会社と対決するようになった。 1946年(昭和21年)3月に第1次争議、同年10月に第2次争議が起こった。第1次争議は比較的穏やかなものだったが、第2次争議は従組が労働時間の制約など様々な新協定を会社側に認めさせた。ストや新協定の混乱により映画撮影はままならず、東宝の製作本数は18本で、他社の半数までに落ちた。 同年11月、ストも反対だが、会社側にもつかないと表明した大河内伝次郎に賛同した長谷川一夫、入江たか子、山田五十鈴、藤田進、黒川弥太郎、原節子、高峰秀子、山根寿子、花井蘭子の十大スターが「十人の旗の会」を結成して組合を離脱。渡辺邦男監督なども組合を脱退し、方針を巡って対立した配給部門の社員は第二組合を結成して離脱した。 1947年(昭和22年)3月、「十人の旗の会」のメンバーと、同時に組合を脱退した百数十名の有志が中心となり新東宝を設立した。 東宝は健全な運営は難しくなっていたが、当時の経営陣は巨大な従組と直接対決を避けるため、従組を「第一製作部」、従組離脱組を「第二製作部」として、あえて離脱組を冷遇した。また、離脱したスターの穴を埋める為、三船敏郎、久我美子、若山セツ子、岸旗江、伊豆肇などの新人若手俳優を積極的に起用した。彼らは「東宝ニューフェイス」と呼ばれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東宝争議」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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