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東寧府(とうねいふ)は、元が平壌に設置した統治機構(植民地との見方も存在する〔吉田光男は、「慈悲嶺以北の平安道、黄海道一帯を占領して直轄植民地とした。翌年元は平壌に植民地統治機関として東寧府を設置」と記している(Yahoo!百科事典)。〕)。双城総管府と共に高麗に対する支配の拠点とされた。 ==沿革== 1269年(至元6年)10月、崔坦、韓慎、李延齡、桂文庇、玄孝哲ら親元派が反元派である林衍の排除を口実に反乱を起こし高麗北西部の府、州、県、鎮60城を以って元朝に降伏した〔『高麗史』巻26〕。翌年元朝は旧西府に東寧府を設置、慈悲嶺(現在の北朝鮮黄海北道鳳山郡東部)を境界とし遼陽行省に帰属、崔坦を総管に任命した〔『高麗史』巻130 崔坦伝〕。 1276年(至元13年)、東寧府は東寧路に昇格された〔『元史』巻59 地理志二〕。この昇格に関しては『高麗史』にはその記載が見られず、また1276年(忠烈王2年)8月及び1278年(忠烈王4年)2月の条に「東寧府」の記載〔『高麗史』巻28〕が見られることから、間もなく東寧府に改称されたものと推察される。 その後元朝と高麗の間の宗藩関係は強化され、1290年(至元27年)7月に東寧府は廃止となり、管轄区域は高麗に移管され〔『高麗史』巻30 忠烈王世家三 忠烈王16年3月条〕、20年にわたり設置された東寧府は廃止された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東寧府」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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