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東山 千栄子(ひがしやま ちえこ、旧字体:千榮子、1890年9月30日 - 1980年5月8日)は、日本の女優。日本新劇俳優協会初代会長。本名は河野 せん(旧姓は渡辺)。 築地小劇場を経て俳優座の結成に参加した新劇女優で、舞台では翻訳劇の貴婦人役を多く演じ、特に『桜の園』のラネーフスカヤ夫人役は生涯の当たり役となった。映画やテレビドラマでは老婦人役を多く演じ、映画『東京物語』の老母役で知られる。主な栄典・称号・褒章に紫綬褒章、文化功労者。著書に自伝『新劇女優』など。 妹に料理研究家の中江百合、弟にベース奏者の渡辺良がいる。 == 来歴・人物 == 1890年(明治23年)9月30日、千葉県千葉市に生まれる。司法官で後に貴族院議員を務めた渡辺暢の次女で、10人兄妹の3番目〔新撰 芸能人物事典 明治~平成「東山千栄子」の項 〕。生家は代々佐倉藩の城代家老を務めていた〔東山の自伝『新劇女優』〕。1899年(明治32年)、母方の伯父である法学者の寺尾亨の養女となり、東京市麹町区富士見町に転居する〔〔『櫻散りぬ ある小学唱歌教師一族の近代史』p.267〕。 富士見高等小学校高等科2年を終えて華族女学校に入学〔 し、1907年(明治40年)の卒業後は仏英和女学校(現・白百合学園高等学校)でフランス語を学ぶ。1909年(明治42年)、「外交官夫人になってほしい」と言う養父母の希望で、輸入業者のモスクワ支店長だった河野通久郎と結婚し、河野の任地のモスクワへ向かった。その間にリヨンへ語学留学したが、買い物で滞在費を浪費したため、モスクワへ連れ戻されている。また、夫に連れられて見た、モスクワ芸術座の舞台『桜の園』を見るうち、その魅力の虜となった。1917年(大正6年)、ロシア革命の影響で夫と共に日本に帰国した。夫はすぐに海外勤務に就いたが、ロシアの政情不安から一人日本に留まった。 1925年(大正14年)、築地小劇場に第2期研究生として入団〔〔大笹吉雄著『新日本現代演劇史 第2巻』p.329〕。同期には岸輝子、村瀬幸子、薄田研二らがいた。ユージン・オニール作『皇帝ジョーンズ』の貴婦人役で初舞台を踏んだ〔〔。翌1925年(大正15年)、メーテルリンク作『タンタジールの死』が初主演作となり〔、1927年(昭和2年)に『マクベス』のマクベス夫人を演じて注目を浴びた。同年、チェーホフ作『桜の園』でラネーフスカヤ夫人を演じ、以降東山の当たり役として1963年(昭和33年)の俳優座公演までに約310回も演じた。 1928年(昭和3年)、築地小劇場創立者の小山内薫が死去し、その影響で劇団が分裂。多くの劇団員が脱退していった中、東山は青山杉作、北村喜八らと同劇場に残留し、北村らと劇団築地小劇場を名乗って活動した。しかし、1930年(昭和5年)には青山らと劇団新東京(後に劇団東京、劇団自由舞台と改称)を結成した。解散後は新築地劇団や文学座などの劇団に客演し、映画やラジオにも出演した。 1944年(昭和19年)、千田是也、東野英治郎、小沢栄太郎らと俳優座を結成する。終戦まで移動演劇隊・芙蓉隊を組織して地方を巡演した。戦後も東山は劇団の中核として数多くの舞台に出演し、『フィガロの結婚』の伯爵夫人役、『女の平和』のリューシストラテー役、森本薫脚色の『陳夫人』などが代表作〔。1952年(昭和22年)には『桜の園』の演技で芸術選奨文部大臣賞を受賞した。 戦中から映画にも意欲的に出演している。溝口健二監督『女優須磨子の恋』、吉村公三郎監督『源氏物語』、今井正監督『喜劇 にっぽんのお婆あちゃん』等に出演したが、特に小津安二郎監督の『東京物語』では、笠智衆と共に老夫婦を演じて映画出演の代表作とした。また東山は木下惠介監督作品の常連出演者であり、木下監督のデビュー作『花咲く港』から『歌え若人達』まで計13本に出演している。 1956年(昭和31年)、女優として初の紫綬褒章を受章する。1958年(昭和33年)、日本新劇俳優協会の初代会長に就任し、亡くなるまで務めた。1966年(昭和41年)には文化功労者に選出された。 1969年(昭和44年)、体力的な衰えから舞台活動を引退し、その後はテレビなどに活動の場を移し、晩年まで仕事を続けた。 1980年(昭和55年)5月8日、静岡県御殿場市の自宅で老衰のため89歳で没した。葬儀は劇団俳優座・日本新劇俳優協会合同葬という形で行われた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東山千栄子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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