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東映セントラルフィルムは、かつて存在した東映グループ傘下の映画製作、配給プロダクションである。 プログラムピクチャーの外注化を設立目的として〔#キネ旬197812、84-90頁〕1977年12月10日に設立された〔。 映画を作るのではなく、ここをクッションにして独立プロに発注、また独立プロからの東映持ち込みの窓口になり映画の配給を行っていた〔。東映本体で製作された映画の配給は行わず、自身で映画を企画、製作を行うセクションをセントラル・アーツと呼んでいた〔#日活ロマン、311頁〕。 東映セントラルフィルムは1988年10月27日に解散しているが〔#悔いなき、357頁〕、セントラル・アーツは2015年2月現在も存続している。 ==概要== 1970年代後半、当時の東映社長・岡田茂は「映画は映画会社だけが作る時代にあらず」とぶち上げ〔橋本プロダクションや角川映画、西崎義展などの商業独立プロの導入、提携を図るが〔#活動屋人生、215、236、242-243頁〕〔#クロニクルⅡ、6-7頁〕〔NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】 〕プログラムピクチャーの対応を考え、1977年12月10日に設立したのが東映セントラルフィルムである〔〔#悔いなき、184頁〕〔talk & interview - _... moment ...._: 仙元誠三 〕。当時東映はそれまで大きな柱だったプログラムピクチャーが不振を極めていた。 岡田は「東西の撮影所でつくるものは原価が高いし、低コストものを何本かつくって番組編成の支えにしようと発足させた」と述べている〔#活動屋人生、157頁〕。資本金100万円、専従スタッフ2人〔。代表は鈴木常承東映取締役営業部長が兼任した〔。事務所は東京銀座の東映本社の7階に置かれた〔#キネ旬20151、82頁〕。『キネマ旬報』1978年12月号の東映セントラルフィルムの特集では「東映セントラルフィルムは東映ビデオの子会社ではなく、東映の核プロとして設立された。同社は営利セクションではなく、製作・配給部門の赤字減らしのためのペーパーカンパニーである」と書かれている〔。当時の一本立大作主義への移行によって生じた極端な作品不足への対処、合理化の一環ではあるが、フリーの才能ある映画人を使ってローバジェットの映画作り、メジャーからは生まれない異色作の配給を目的とした〔#三十年、212頁〕。東映セントラルフィルムは自社製作映画だけでなく、下番線向けのポルノ映画なども外部に発注したが、中小独立プロが割拠しているわけではないから、外注だけでは事業が成り立たない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東映セントラルフィルム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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