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東映アニメーション株式会社(とうえいアニメーション、)は、日本のアニメ制作会社である。 日本動画協会正会員、練馬アニメーション協議会幹事。 == 沿革 == === 1950 - 1960年代 === 1948年(昭和23年)1月、政岡憲三、山本善次郎らにより日本動画株式会社設立。設立当初は成城高校の空き教室約100坪を使って制作が行われた。1952年(昭和27年)8月、日動映画株式会社に商号変更した〔。 1955年(昭和30年)、日動映画の藪下泰司と山本善次郎が東映の今田智憲営業課長を訪ね〔#アニメ大全集、4-5頁〕「自分たちは日動というアニメの会社を24、5人でやっているんだが、どうも難しい。協力してもらえないか」と相談があり〔、国際的な映像の仕事としての大きな可能性を感じた今田が大川博東映社長に「東洋のウォルト・ディズニーになりましょう」と進言し日動映画の買収を決めた〔。 1956年(昭和31年)1月、東映は東映動画の設立に向け「漫画映画製作研究委員会」を立ち上げ、委員長は大川博社長で、設立準備の実務担当委員として赤川孝一管理課長〔後の教育映画部次長、赤川次郎の父〕や、今田智憲らが任命された〔Autodesk :: AREA JAPAN | コラム | 第4回:池田 宏 氏 〕。ところが、事業計画案を巡り赤川と今田の意見が対立した。今田は「カラー長編制作に加え、ディズニー社を始めとするアメリカの長編アニメ制作会社と提携し、その制作技術を導入すること」「作品制作事業だけでなく、関連商品販売やテーマパーク運営など、広範囲にわたる事業展開を図るべし」「絶対に天然色で、長編漫画でなければ収入はあがらない」などと提案〔。今田は今日のキャラクター・ビジネスやマーチャンダイズに近い発想を既に持っていたが、結局赤川の教育映画部の意見が優先され、今田の意見は却下された。 同年7月、東映が日動映画を買収。森康二、藪下泰司らを擁する東映動画株式会社が発足した〔。東映動画の発足にあたっては短編・中編制作の事業計画のみが記載され、長編の記載はなかったが〔、もとは香港からの持ち込み企画であった『白蛇伝』の制作をスタートさせた。当時、日本国内にアニメーション制作会社はごく少なく、長編制作の経験もほとんどなかった中で、東映は日動映画を買収することによりアニメーション制作のノウハウを得ようとしたのである。 1956年(昭和31年)、東京都練馬区の東映東京撮影所内にスタジオが完成。東映動画は1957年(昭和32年)1月9日、この新スタジオに移転した〔。スタジオ完成とともに新たに採用された東映動画第一期生の中には大塚康生、楠部大吉郎らがいた。また手塚治虫が嘱託として制作に携わっている。この時のノウハウが旧虫プロダクションで活かされることとなる。 新スタジオでは『白蛇伝』制作のためのスタッフ急増とCMフィルムの需要の増加に対応して同年末に第1次増設工事に着工。同年4月10日に竣工し2年後の1959年(昭和34年)6月15日には第2次増設工事竣工。さらに『狼少年ケン』などのテレビアニメの制作に対応するため1964年(昭和39年)6月2日には第3次増設工事が竣工し現在のスタジオに成長した。 スタジオの完成によって長編アニメーション制作の体制が整い、手慣らしとして旧日動映画スタッフ指導の下、1957年(昭和32年)5月に初の短編作品『こねこのらくがき』を制作。続いて1958年(昭和33年)10月に『白蛇伝』が完成。その後、『わんぱく王子の大蛇退治』、宮崎駿などの『白蛇伝』に影響を受けたスタッフらも制作に参加した『太陽の王子 ホルスの大冒険』、『長靴をはいた猫』などの長編作品を発表し、1960年代における東映長編時代が築かれた。 東映アニメーションのマスコットキャラクターは、『長靴をはいた猫』・『ながぐつ三銃士』・『長靴をはいた猫 80日間世界一周』の主人公ペロである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東映アニメーション」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toei Animation 」があります。 スポンサード リンク
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