|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 東 : [ひがし] 【名詞】 1. east ・ 条文 : [じょうぶん] 【名詞】 1. text 2. provisions (act, treaty) ・ 文 : [ぶん] 【名詞】 1. sentence ・ 文博 : [ぶんはく] (n) doctor of literature ・ 博 : [ばく, ひろ] 1. (n,n-suf,vs) doctor 2. Ph.D. 3. exposition 4. fair 5. exhibition 6. commanding esteem 7. winning acclaim 8. gaining 9. receiving 10. command esteem 1 1. win acclaim 12. gain 13. receive
東条 文博(とうじょう ふみひろ、1944年7月12日- )は、鹿児島県日置郡出身の元プロ野球選手である。現役時代のポジションは、内野手。 == 来歴・人物 == 鹿児島実業高校では、三塁手として1961年の夏の甲子園に出場。鹿児島実は甲子園初出場であった。1回戦で中京商の山中巽、林俊彦両投手の継投の前に完封を喫する〔「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年〕。卒業後、1963年に南海ホークスへ入団。 だがここでは出場機会に恵まれず、1966年、無徒史朗とともに金銭トレードでサンケイアトムズに移った。同年は二塁手、遊撃手として起用され、54試合に先発出場を果たすが、打撃面で伸び悩み、その後は出場機会が漸減する。 しかし1969年には、西園寺昭夫が故障で離脱した後を受け、レギュラー遊撃手、一番打者の地位を勝ち取る。同年は打撃が開花し、規定打席には届かなかったが打率.320、17盗塁を記録した。チーム名がヤクルトアトムズに変わった1970年には、チーム17連敗を阻止するサヨナラヒットを放つなど130試合フル出場して28盗塁をマークし、盗塁王を獲得。 1975年、ロッテオリオンズに移籍し、同年オフに引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東条文博」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|