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== 組閣 == 前の内閣総理大臣である近衛文麿は、中国および仏領インドシナからの日本軍の撤兵や日独伊三国同盟からの脱退などを要求するアメリカ合衆国と、これに反対する陸軍との板挟みとなり、事実上の改造内閣である第3次近衛内閣の発足後3ヶ月で東條陸相と決裂して閣内不一致となり、これを受けて後継内閣が模索されるさなかに一方的に内閣を投げだした。 後継内閣には、近衛も東條も、時局収拾のためという名目で皇族内閣の成立を望み、陸軍大将の東久邇宮稔彦王を次期首相候補として挙げた。稔彦王は現役の軍人であり、軍部への言い訳も立つという考えもあってのことである。昭和天皇は、陸海軍が平和の方針に一致するのであれば、という条件で東久邇宮首班を認める。しかし、木戸幸一内大臣が東條に確認したところ、東條はあくまで新首相に下駄を預ける考えを示した。そのため木戸が「皇族の指導によって政治・軍事指導が行われたとして、万が一にも失政があった場合、国民の恨みが皇族に向くのは好ましくない」として東久邇宮首班に反対し、あらためて重臣会議に諮られた。結局、「強硬論を主張する東條こそ、逆説的に軍部を抑えられる」という木戸の意見が通り、東條が組閣することになった。なお同時に東條は、中将昇進後最低5年を経なければならない陸軍大将に異例の昇進をしている。 東條は首相・陸軍大臣・内務大臣を兼ねて絶大な権力を一手に握り、「東條幕府」と揶揄された。組閣の大命を受けるにあたって昭和天皇から対米交渉の継続を示唆された〔9月6日の御前会議で決定された帝国国策遂行要領では10月上旬頃までに対米交渉がまとまる見込みがなければアメリカに対して開戦することを規定していたが、昭和天皇はこれを白紙に戻して再検討することを命じた(白紙還元の御諚)。〕東條は、その意を体して交渉派の東郷茂徳を外務大臣に起用するなどしており、東條による3ポスト兼任も、日米交渉が日本の譲歩によって妥結した場合に予想される社会の動揺を警察と陸軍の力で抑え込むためであるとする見方がある〔森山優 『日本はなぜ開戦に踏み切ったか 「両論併記」と「非決定」』 第4章 p.100 新潮選書 2012年6月20日〕。陸相の兼摂は木戸の提案であり、対米交渉妥結時に大陸からの撤兵を確実に行わせる意図による。 海軍は海軍大臣に豊田副武を推薦したが、豊田の反陸軍的な姿勢に懸念を示す東條が、天皇による陸海軍協力の命を盾にとって拒否した。軍からの軍部大臣の推薦が拒まれたのは異例なことであったが、海軍内で影響力が大きかった伏見宮博恭王(元帥)も豊田の推薦には苦言を呈していたこともあり、海軍は折れて、及川前海相が嶋田繁太郎を推薦しなおした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東條内閣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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