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東洋車輌株式会社(とうようしゃりょう)はかつて日本に存在した鉄道車両メーカーである。大正期に福岡県で創業し、電車、貨車を中心に蒸気機関車やガソリンカーも手掛けた。昭和金融恐慌を乗り切れず工場は閉鎖された。前身とされる枝光鉄工所も併せて記述する。 == 沿革 == 合資会社枝光鉄工所は第一次世界大戦による好景気時の1917年(大正6年)に福岡県八幡市枝光(現・北九州市八幡東区)に設立された〔取扱製品化学工業用タンク類、蛇管及び付属機械その他諸機械『工場通覧. 大正8年10月』563頁 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。1919年(大正8年)7月株式会社に改組〔「京阪グループの系譜」119頁〕専務は今井多三郎〔『人事興信録. 5版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕が就任し、松永安左エ門を相談役に迎え、取締役技師長には汽車製造の工藤兵治郎を引き抜いた。工藤は工藤式蒸気動車を発明した人物でありこの蒸気動車販売を期待したものであった。ところが目論見ははずれわずか2両に留まり最後の国内新製車両となった。1919年度には客車・電車29両、貨車72両を製作し〔『日本鉄道車輌工業史』97頁〕、職工数は164人であった〔取扱製品電動客車及び貨車、転轍機付属品、運搬車付属品『工場通覧. 大正10年11月』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕。しかしまもなく戦後不況となり〔『全国銀行会社事業成績調査録』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕1923年(大正12年)3月には前年に設立したばかりの東洋車輌株式会社に合併されることになった。この合併劇については不況期に東洋車輌を設立したこと自体が異例で重役には太田光凞や五島慶太などの私鉄関係者〔『帝国銀行会社要録 : 附・職員録. 大正14年版』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕が加わっており今井が支援を要請したと見られる〔。以降路面電車、貨車の製造を主にあつかっていたが、昭和金融恐慌は東洋車輌の販路である地方鉄軌道の経営不振により需要の減少をまねき、加えて同業者間の受注競争は採算度外視の争奪戦となり〔『日本鉄道車輌工業史』187頁〕、1931年(昭和6年)に工場は閉鎖された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東洋車輌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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