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東活映画 : ミニ英和和英辞書
東活映画[ひがし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひがし]
 【名詞】 1. east 
映画 : [えいが]
 【名詞】 1. movie 2. film 
: [かく, が]
 【名詞】 1. stroke 

東活映画 ( リダイレクト:東活映画社 ) : ウィキペディア日本語版
東活映画社[とうかつえいがしゃ]
東活映画社とうかつえいがしゃ、1931年 設立 - 1932年 解散)は、かつて京都に存在した映画会社である。
== 略歴・概要 ==
かつてマキノ省三1921年(大正10年)に京都・等持院境内に建設した「等持院撮影所」をその後経営していた東亜キネマが業績不振に陥った1931年(昭和6年)9月、同社の代行をする会社として設立されたのが「東活映画社」である。等持院撮影所は「東活映画等持院撮影所」となり、東亜時代の撮影所長の高村正次は辞任、安倍辰五郎が所長に就任した〔立命館大学の「京都映像文化デジタル・アーカイヴ マキノ・プロジェクト」サイト内の「等持院撮影所 」の記述を参照。〕。安倍は東亜京都の最後の作品『薩南大評定 黄金篇』のプロデューサーであり、同作は翌10月15日に公開されたが、同じ座組みで製作したその続編『薩南大評定 万能篇』を同月31日に東活映画設立第一作として公開した。同作は、後藤岱山橋本松男堀江大生重政順が監督として名を連ねる大作で、羅門光三郎原駒子小川雪子が出演した。
1932年(昭和7年)10月、早くも「東活」は解散、等持院撮影所は閉鎖された。翌11月高村が復活し、東亜キネマを買収、「宝塚キネマ」を設立した。高村の新会社が稼動させた撮影所は御室撮影所であり、等持院は永遠に閉鎖、翌1933年(昭和8年)5月等持院撮影所は競売に伏された〔。「東活」製作の最終作品、金田繁・大伴麟三監督、月形龍之介主演の『決戦荒神山』は、高村の「宝塚キネマ」の配給で1932年12月31日に公開された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「東活映画社」の詳細全文を読む




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