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東海線(トンヘせん、とうかいせん)とは、 *日本統治時代の朝鮮半島において計画されていた朝鮮総督府鉄道の鉄道路線。 *大韓民国慶尚北道慶州市の牟梁信号場と浦項市の浦項駅の間を結ぶ韓国鉄道公社(KORAIL)の鉄道路線。 本項では双方について詳述する。 ---- == 朝鮮総督府鉄道・東海線 == 釜山から慶州、江陵、襄陽を経由して元山へ至る鉄道路線として、朝鮮総督府鉄道が施設計画を立てた。「東海」という名は、路線が東海(朝鮮における日本海の別称)に沿って沿線を結ぶことに由来している。1929年に最初の区間が部分開業したが、その後は大日本帝国が昭和恐慌に陥ったことや日支事変から大東亜戦争へと戦線を拡大したことで建設はほとんど進まず、終戦時点で開通していたのは元山から襄陽までの東海北部線、釜山から慶州を経て浦項までの東海南部線、そして墨湖から北坪(現在の東海)を経て三陟までの区間(現在の墨湖港線・三陟線に当たる)だけあった。 1945年の日本の降伏後、朝鮮は北緯38度線を境としてアメリカ占領区域とソ連占領区域の南北に分断され(連合国占領時代の始まり)、東海線の線路も東海北部線がソ連、その他の路線がアメリカの管轄とされた。東海北部線は1948年に朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へと引き継がれたが、1950年の朝鮮戦争勃発により運行が中断された。その後、1953年の朝鮮戦争休戦協定で軍事境界線が引かれると、東海北部線は途中で境界線を跨ぐことになり、重要性の低さから南北いずれでも復旧されずに荒廃するままで放置され、南側では1967年までに正式な廃線となった。一方、東海南部線と東海一帯の路線は大韓民国に引き継がれ、朝鮮戦争の一時期を除いて、鉄道庁によって営業が続けられた。また、嶺東線建設に合わせ、東海線の一部区間になる予定であった東海 - 江陵間が嶺東線の一部として1962年に新規開業した。だが、その他の区間については、建設の費用対効果が乏しいことから手が付けられないまま20世紀を終えた。 このような状況は、1998年に金大中政権が誕生して太陽政策を始めると大きく変わった。2000年に南北首脳会談が開かれると、京義線と共に東海線を完成させることが南北会議で合議された(京義線・東海線鉄道および道路の連結事業参照)。また、アジア太平洋経済社会委員会 (ESCAP)が2001年に策定したアジア横断鉄道計画の中で、東海線が韓国・日本からロシア・ヨーロッパへ貨物を運ぶ鉄道網の一角に組み込まれたため、東海線の建設はシベリア鉄道を有するロシア等の朝鮮以外からも注目されるようになった。既に北朝鮮側では東海北部線の元山~外金剛(金剛山青年)間が金剛山青年線として1996年に再開通していたため、軍事境界線を越える区間が優先的に建設された。その後、北朝鮮側の一方的な中断などがあって延期されていたものの、南北間交渉の進展によって両者は2007年5月17日に試運転を行うことで合意し、試運転は金剛山青年(北側)~猪津(南側)間で正式に履行された。だが、それ以降は南北関係の冷却によって南北の連結事業が事実上中断となっており、2016年時点で軍事境界線を越える定期列車は運行されていない。 一方韓国国内では、韓国鉄道施設公団が日本海沿岸の浦項(東海南部線)と三陟(三陟線)を南北に繋ぐ新線(東海中部線)の建設を行っており、2019年頃に開業する予定である。だが、江陵から襄陽を経て猪津駅(東海北部線)に至る区間については一切が未定となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東海線」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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