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東海道富田の一里塚(とうかいどうとみだのいちりづか)は三重県指定の史跡。江戸時代の東海道の一里塚の1つで桑名宿と四日市宿の中間の富田六郷の東富田村に位置した。所在地は三重県四日市市富田3丁目20番地。 ==歴史== *富田の一里塚跡は朝明郡の富田六郷東富田村(現在の四日市市富田西町連合自治会内)の現在の近鉄名古屋線鉄橋付近の東海道沿いに立地をしていた。富田の一里塚は昔江戸時代の街道であった東海道の両側に一里(約4km)ごとに土を盛り上げて、えのき等の樹木を植えて旅人の目印にしたものが東海道富田の一里塚である。すでに戦国時代末期に富田の一里塚は存在していたが、江戸時代の初期から江戸日本橋を起点として五街道を中心に一里塚が設置をされた。しかし近代化をした明治時代以降は、鉄道や道路などの交通機関等の発展により、ほとんどの一里塚が取り除かれてしまい、四日市市においても、一里塚の面影をみることができなくなった。古い時代の地図や古文書など文献によると四日市の市内には以下の一里塚がある。 #富田の一里塚 #三ツ谷の一里塚 #日永の一里塚 #采女の一里塚 *これらの四ヶ所の一里塚跡が判明されており、富田の一里塚はそのうちの一つで、日永の一里塚跡と同時に三重県の史跡に指定されている。 *富田の一里塚の歴史は古く、1582年(天正10年)に伊勢国を支配していた織田信長が36町歩を1里として定めて塚を建設し始めたのが由来である。徳川家康も東海道五十三次のルートに江戸(現在の東京)日本橋から京都三条大橋まで、1604年(慶長9年)より順次1里(約4km)の間隔の一里塚を設置をした。富田の一里塚は富田西町の外側の外れの東海道に『史跡富田の一里塚』の石碑が建設されている。富田の一里塚は、東海道の街道の両側に相対して3m位に土盛りがされていて、山手側に榎が1本と松一本と、反対側に榎が一本が植林されていた。この木陰で旅人が旅の疲れを癒していた。〔ふるさと富田25頁10行目~26頁行目〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東海道富田の一里塚」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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