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東瀬 耕太郎(あずせ こうたろう、1967年5月6日 - )は、熊本県熊本市〔プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、12ページ〕出身の元プロ野球選手(投手)。 == 来歴・人物 == 帯山中学校2年生の時に全国中学軟式野球大会で優勝〔。当時の3年生に松崎秀昭(元南海)と御船英之(元ダイエー、広島、近鉄)がいる。九州学院高校では、1年秋から主戦で登板。2年春のRKK旗大会では3試合連続完封で優勝に導く。その年の夏の全国高等学校野球選手権熊本大会準々決勝では、強豪済々黌高校を相手に9回2死までノーヒットノーラン。3年時は肘の故障で満足に投げられず4番・一塁として出場した。夏の全国高等学校野球選手権熊本大会では熊本西高校に決勝で敗れ準優勝〔。尚、学校では部活をしている生徒に珍しく、特進クラスの英語コースに3年間所属していた。 明治大学では3年春からリーグ戦に登板する。4年生の春に大きく飛躍し、148km/hを超すストレートでプロの注目を浴びる〔。卒業後は野球部のない一般企業、安田信託銀行への就職が内定していたが、これは父親が京都大学法学部卒業でもあり、厳格な家庭で育った為、野球は大学までと決めていたから。 しかしのドラフト会議にて横浜大洋ホエールズが2位で指名。同じく横浜大洋ホエールズに4位で今久留主成幸、日本ハムファイターズに4位で舟山恭史が指名を受け、同大学から3人がプロから指名を受けた。当然交渉は難航したが、翌の1月にようやく入団が発表された〔。その際の契約では将来はビジネスに携わりたいとの希望で、野球引退後に親会社勤務(マルハ)の契約を結んでいた(広島移籍時に選択を迫られ破棄する)。契約内容は大洋漁業本社(マルハ)に就職で、その子会社、横浜大洋球団に出向というものであった。本人が当時の球団社長と交渉し、その旨の「覚書」を作成した。尚、この時の経験が現在のビジネスに大きな影響を与えている。 入団後、1年目中盤から一軍に登板。先発を主にしていたが3年目からリリーフに転向。シーズン序盤の登板過多により肩を故障、それから思うように投げることが出来ずに苦しんだ。シーズン開幕2日前に永野吉成とのトレードで千葉ロッテマリーンズに移籍。オフに自由契約となる。 その後、同年秋に広島東洋カープと契約。の6月後半から自己最多の37試合に登板し7年ぶりの勝利を挙げるなど活躍をする。しかし翌自由契約となり、同年秋に大学の先輩である星野仙一監督の中日ドラゴンズにテスト入団。 オフ、小池秀郎、佐野重樹、善村一仁とのトレードで門倉健、古池拓一とともに5球団目となる大阪近鉄バファローズへ移籍。限りで現役引退。現役11年間で5球団も移籍した、当時では珍しい日本型「ジャーニーマン」である。 引退時に、メジャー球団よりスプリングキャンプ招待の話があったが固辞。マイナー契約であったが肘の手術込みで2年の複数年契約の内容だった。 引退後、東京都内の商社勤務等を経て独立。現在はスポーツマネジメント業務を行う。分野は野球がメインで、日本のプロ野球選手とコーチ、メジャーリーグ(マイナー)の選手をクライアントに持つ。(2013年度にクライアントが帰国し、現在メジャー選手はいない)これまでに数多くの契約交渉や、FA移籍案件のコンサルティングを行ってきている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東瀬耕太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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