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ドイツ民主共和国(ドイツみんしゅきょうわこく、; )、通称東ドイツ(ひがしドイツ、)は、第二次世界大戦後の1949年に旧ドイツ国のソビエト連邦占領地域に建国された国家。旧ドイツ国西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地域に建国されたドイツ連邦共和国(西ドイツ)とともにドイツを二分した分断国家の一つ。1990年、ドイツ連邦共和国に領土を編入される形で消滅した。 == 概要 == ドイツ民主共和国は社会主義国〔東ドイツ憲法第1条 「ドイツ民主共和国は労働者と農民による社会主義国家である」() 〕であった。政治体制はソ連型社会主義で典型的な一党制ではなく反ファシズムを最大公約とした複数政党による議会制民主主義国(人民民主主義)の形態を採っていたが、実際はドイツ社会主義統一党 (SED) が寡頭政治政党として指導権を有していた〔東ドイツ憲法第1条 「(ドイツ民主共和国は)労働者階級とそのマルクス・レーニン主義政党(SED)の指導の下に置かれる、都市と農村における労働者の政治組織である。」() 〕。SED以外に4つの政党が存在を許されていたが、衛星政党としての性格が強かった(ヘゲモニー政党制)。多数のソビエト連邦軍が駐屯する冷戦の最前線でもあり、政治的・軍事的にはソビエト連邦の衛星国であった。 また、秘密警察である「国家保安省(シュタージ)」による国民の監視が徹底され、言論の自由などはないに等しかった〔憲法には言論の自由、集会・結社の自由などが規定されていたが、それらはすべて「憲法に反しない」範囲とされており、結局第1条に規定されているSEDによる国家の指導権によって制約を受けた。また、刑法の規定ではSEDやソ連を批判するだけで1年から8年の懲役刑が科された(仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P74-75。〕。シュタージは職場や家庭内に非公式協力者 (IM) を配置し、相互監視の網を張り巡らせた。 経済では第二次世界大戦の被害と、ソビエト連邦による賠償の取り立てを乗り越え、1970年代までは中央・東ヨーロッパの社会主義諸国の中で最も発展していた。一般家庭への自家用車の普及は進まず、常用された電化製品も西側の物に比べ旧式であったが、テレビでは多数のCMが流されるなど、共産圏では異例の消費社会に到達出来た生活水準(中国返還前の香港人一般庶民程度)を実現したと言われる。そういった事もあって「(東欧経済における)優等生〔仲井斌『もうひとつのドイツ』朝日新聞社、1983年 P157〕〔永井清彦・南塚信吾・NHK取材班『社会主義の20世紀 第1巻』日本放送出版協会 1990年 P90〕」「東欧の日本〔伸井太一『ニセドイツ〈1〉 ≒東ドイツ製工業品』P155〕」とも呼ばれていた。また女性の社会進出も進んでおり、人民議会議員の3人に1人、校長は5人に1人、教師は4人に3人、市長は5人に1人の割合が女性で占められていた。 1980年代には、裁判において陪審員制度も導入され、体制への不満に対するガス抜きとしての役割を果たしていた。また、徴兵制導入後すぐに兵役拒否者が続出したため、西ドイツに人権尊重の面で負けていないことを国際的にアピールする上でも良心的兵役拒否が合法的に認められ、代替役務が制度化されていた。1987年には死刑を廃止した。なお、一定期間無職でいると、自分に合う、合わないといった職種選択権が無い、問答無用の強制労働が科せられていた。 1970年代以降は公共投資が進み、日本の企業も積極的に進出し、「社会主義のショーウィンドウ」であった東ベルリンには高層ビルも建築され、生活水準もある程度上昇していたが、西ドイツには大きく水をあけられ、消費資材などの供給が少なく、重化学工業生産が優先されていた。例えば、自動車は申し込んでから7~8年以上待たないと納車されなかった上に、輸入車は事実上入手が不可能であった。一方、経済成長に偏向し過ぎたため、深刻な環境問題などを引き起こすことになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ドイツ民主共和国」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 East Germany 」があります。 スポンサード リンク
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