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藤井 貢(ふじい みつぐ、1909年8月28日 - 1979年10月23日)は、東京市出身の俳優、元ラグビー選手。日本代表・キャップは1。 == 来歴 == 慶應義塾普通部と慶應義塾大学予科を経て、慶應義塾大学法学部政治学科に進学〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報増刊1979年10月23日号、キネマ旬報社、1979年、P501〕。同大学ではラグビー部で活動して、ラグビー日本代表として初のキャップ対象試合となった、1930年9月24日にカナダ、バンクーバーで行われたブリティッシュコロンビア州代表戦にセンター(CTB)のポジションで出場した〔大友信彦編『ザ・ワールドラグビー』、新潮社、P44〕。1931年に横浜外人チームとの試合でアキレス腱を断裂したために、ラグビー選手を引退する〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報増刊1979年10月23日号、キネマ旬報社、1979年、P501〕。 1932年5月に、当時、松竹蒲田撮影所所長であった城戸四郎にスカウトされて、大学在学中に松竹蒲田に入社して俳優になった〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報増刊1979年10月23日号、キネマ旬報社、1979年、P501〕。その後は東京発声映画製作所、新興キネマ、松竹下加茂撮影所と変遷するが、松竹蒲田制作の『大学の若旦那』シリーズ〔大学の後輩にあたる加山雄三が主演した、若大将シリーズのルーツと言われている。〕の主演、松竹下加茂制作で高田浩吉と組んだ『彌次喜多シリーズ』などに出演〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報増刊1979年10月23日号、キネマ旬報社、1979年、P501〕。第二次世界大戦後は松竹、大映、東映で活躍した。また、晩年はピンク映画にも数本出演した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「藤井貢」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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