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東西大学対抗ラグビー(とうざいだいがくたいこうらぐびー)は、全国大学ラグビーフットボール選手権大会(以下、大学選手権)の実質的な前身大会として、1925年度〜1963年度まで行われていた。 最多優勝は早稲田の9回である。 == 概要 == 表題は、日本ニュースなどの資料〔日本ニュース 戦後編 第1号 - NHK戦争証言アーカイブス〕〔ラグビー早明戦80年(ベースボール・マガジン社)〕に基づき、東西大学対抗ラグビーとしているが、特定の名称があるわけではなく、東西大学対抗(戦)や、東西各1位校同士の対戦の場合についてのみ、東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦という言い方をするケースもある。但し、かつて行われていた関東と関西の大学ラグビーオールスター戦・東西学生対抗試合とは趣旨が異なることや、東西各1位校のみの対戦に限定されなかったことから当該名称を用いることにした。 また、日本の大学ラグビーの実質的な日本一を決定する大会であったが、『好きなチームとスケジュールを組み、勝敗にこだわらずベストを尽くし悔いのない内容のゲームをやる。』というラグビーの伝統的思想を重んじたため、東西の各1位チーム同士の対戦がないというケースもあり、その場合は優勝チームなしとなった。 1925年度より開始され、『第一回ラグビー選手権試合は、関西のベスト・ワンたる同志社大学と慶應大学との間で大正十五年一月十日阪神甲子園で慶應のキックオフで開始』と、同年度版の朝日運動年鑑に明記された通り、1926年1月10日、第1回の東西学生ラグビーフットボール対抗王座決定戦が行われた。しかし6-6の引き分けに終わったため優勝チームはなく、優勝旗は、1926年1月に設立されたばかりの、日本ラグビー蹴球協会(現在の日本ラグビーフットボール協会、以下 日本協会)預りとなった。 基本的には、後に当年11月頃に行われるようになった早稲田 対 京都及び明治 対 同志社以外の対戦は、当年12月最終周〜翌年1月第2週頃までの日程の中で行われ、1925年度等、一部の年度を除き、西暦奇数年度は関東での開催、同偶数年度は関西での開催となった。但し、上記2カードについては、奇数年度が関西、偶数年度は関東で開催が行われた。 第二次世界大戦前は、ラグビーの強豪校は、関東五大学対抗戦〔慶應、早稲田、明治、東京、立教の5大学。〕(後の関東大学ラグビー対抗戦グループ)に属するチームや、関西では同志社や京都といったチームにほぼ限定された背景もあり、優勝該当チームなしという年度はあまり見られなかったが、同戦後、関東で日本や法政、関西でも関西学院〔もっとも、関西学院が東西大学対抗ラグビーへの参戦を開始したのは1938年度からであるから、必ずしも新興チームとは言い難い面もある。〕などの、俗に『新興校』と呼ばれるチームが台頭するようになると、関東五大学対抗戦に属していたチームや、関西でも同志社など、伝統的思想を重んじる『伝統校』との軋轢が生じた背景により、「不戦につき優勝認定チームなし」という年度が続発。それに伴い、大学ラグビーの人気そのものが低落していったため、当制度を維持していくのが極めて困難な情勢となった。 また、同大戦後に開始された全国社会人ラグビーフットボール大会では、トーナメント方式により優勝チームを決定していたことに加え、1960年度より同大会の優勝チームと日本協会招待NHK杯争奪ラグビー大会(日本ラグビーフットボール選手権大会の前身大会)が開始されたことに伴い、社会人チームとの実力を拮抗させる必要性も迫られていたことから、1964年2月8日、日本協会と関東ラグビーフットボール協会(関東協会)は、1964年度のシーズンより、トーナメント方式による大学選手権を開始すると表明したことにより、当制度による大学日本一決定戦システムは廃止となった。 一方、東西大学対抗ラグビー廃止後も、しばらくの間は東西の各大学による対抗戦は行われていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東西大学対抗ラグビー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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