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東邦映画製作所(とうほうえいがせいさくじょ)は、大正末期の無声映画時代にかつて存在した大阪の映画製作会社である。 == 略歴・概要 == 1914年9月、「天然色活動写真小阪撮影所」として開所。「天活」消滅後、「帝キネ」を発足した山川吉太郎社長のもと、1920年5月から「帝国キネマ小阪撮影所」として稼動、1923年「帝キネ」は「芦屋撮影所」を開所した。 1925年、「帝キネ」に「取締役小阪撮影所長」として入り込んだ総会屋の立石駒吉が小阪撮影所を閉鎖、小阪の全従業員を解雇、山川も立石も辞職した。立石は解雇した小阪の従業員を選別し、「東邦映画製作所」を設立し小阪撮影所を復活させる。 確かに立石が選別したメンバーにはその後スター監督になる伊藤大輔監督や、俳優の岡田時彦、「日本最古の映画俳優」横山運平、俳優時代の伊志井寛、稲垣浩、のちに東宝の看板撮影技師となる玉井正夫がいた。しかし、立石にはなんら展望もなく、才能を生かすためのヴィジョンもなかった。伊藤大輔は同社設立第一作『煙』を完成させるが、早々に退社、「伊藤映画研究所」を設立していく。撮影技師の鈴木博はアシヤ映画製作所へ流れることで、やがて「帝キネ」に復帰した。 結果、賃金未払いのため2か月で同社は解散する。 このとき、「東邦小阪」に来た元「帝キネ」従業員は、その後、山川のもと新体制となった「帝キネ」には復帰できなかった。ほぼ全員が散り散りになっていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東邦映画製作所」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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