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東部総合計画(とうぶそうごうけいかく、)とは、ナチス・ドイツによって策定された、ポーランド侵攻や独ソ戦による占領地の再編計画案。ドイツ人の植民によるドイツ化を達成するために、スラブ人・ポーランド人等の追放を前提としていた。 == 策定までの経緯 == ドイツがウクライナなどを獲得してドイツ国の版図とする、いわゆる東方生存圏(:de:Lebensraum im Osten)の獲得はナチズムにとって重要な問題であった。1939年9月のポーランド侵攻とその勝利は、ドイツにとって東方生存圏獲得を現実のものとした。10月7日にドイツ民族性強化国家委員に任じられた親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、親衛隊にドイツ民族性強化国家委員本部(略称RKFまたはRKFDV)を設置し、東部における人種政策の監督と実行に当たることとなった。 当時ポーランドの統治にあたっていたのはハンス・フランクを総督とするポーランド総督府であったが、経済面においてはヘルマン・ゲーリングを長官とする四カ年計画庁によって設立された東部信託公社(:de:Haupttreuhandstelle Ost)が大きな力を持っていた。東部信託公社の官僚達はポーランド総督府領を生産的な「帝国の隣国」として再建しようと考え、ユダヤ人の資産収奪や、ポーランド人・ユダヤ人を強制労働に動員しようと考えていた〔谷、659-660、669p〕。しかしアドルフ・ヒトラーは当初からポーランドを「廃墟と労働奴隷の居留地」以上にする考えはなかった。ヒトラーの意図を汲んだ総督府、親衛隊はユダヤ人問題などをめぐって四カ年計画庁と激しい対立を繰り広げたが、ヒトラー自身はこの権力闘争をほとんど放置した〔谷、669p〕。 1940年12月、ヒトラーは対ソ戦を決断し、作戦計画策定を命令した。しかしこの頃にはイギリスによる海上封鎖の影響でドイツの資源・食糧事情は悪化し始めていた。1941年にはユーゴスラビア侵攻やバルカン半島の戦いで南東ヨーロッパに侵攻し、独ソ戦の開始が遅れることになったが、この侵攻は資源不足の緩和が目的のひとつとなっているなど〔谷、676p〕、国防軍や4カ年計画庁等でも食糧や兵站問題が喫緊の課題となっていた。 この状況下で、ヒムラーはバルバロッサ作戦発動の前日である1941年6月21日に、ドイツ民族性強化国家委員本部計画部に独ソ戦後の総合計画「東部総合計画」の策定を命令した〔谷、678p〕。責任者ベルリン大学教授コンラート・マイヤー(:de:Konrad Meyer)はすでに研究を進めており、3週間後に最初の計画を提出した〔谷、678p〕。さらに1942年7月にマイヤーは改訂版の計画を提出している。最初の計画案は現存していないが、東部占領地域省(:de:Reichsministerium für die besetzten Ostgebiete)のエアハルト・ヴェッツェル(:de:Erhard Wetzel)が鑑定した報告書が残されており、計画の概要は分かるようになっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東部総合計画」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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