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東郷 茂徳(とうごう しげのり、、生名:朴茂德、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時及び終戦時の日本の外務大臣。鹿児島県日置郡にあった、朝鮮人陶工の子孫で形成された集落「苗代川村」(現・日置市東市来町美山)の出身である〔萩原、2005年、pp.11 - 27〕。 欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。 東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える〔佐道明広, P63-P76〕 ==略歴== === 生い立ち === 萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、東郷茂徳は1882年12月10日に、「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村で生まれた〔萩原、2005年、p.27〕。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行した朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった〔萩原、2005年、pp.13 - 15〕。薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った〔萩原、2005年、pp.14 - 17〕。苗代川の住民の多くは「郷士」よりも下の地位に位置づけられたが、前記の保護ともあわせて手厚く遇された〔。しかし、明治維新後の壬申戸籍では「平民」とされ、1880年には苗代川の男子364人の連名で「士籍編入之願」が鹿児島県庁に提出された〔萩原、2005年、pp.22 - 25〕。この364人の中には、祖父・朴伊駒も名を連ねていた〔。しかし、士族への編入は1885年の最後の請願まで却下され続けた〔。その翌年にあたる1886年、朴家は東郷を名乗る士族の家禄を購入してその戸籍に入り、9月6日付で当時満4歳まであと3ヶ月だった茂徳は「東郷茂徳」となった〔萩原、2005年、pp.28 - 29〕。なお、鹿児島では「東郷」姓はありふれたもので、朴家が入籍した東郷家は東郷平八郎とは無関係である〔。茂徳の父・壽勝は陶工ではなかったものの、雇った陶工の作った作品を横浜の外国人など県外に向けて販売し、財を築いたという〔萩原、2005年、p.30〕。 鹿児島県尋常中学校(現・鹿児島県立鶴丸高等学校)から1901年9月に、新設されたばかりの旧制第七高等学校造士館(現・鹿児島大学)に進学〔萩原、2005年、p.33〕。ちなみに同じ鈴木内閣の農相だった石黒忠篤とは高校時代以来の親友だった。そこに赴任していた片山正雄に師事したことがきっかけで、東郷はドイツ文学への理解を深めていった〔萩原、pp.36 - 37〕。これに前後して、2年生の時に父の強い反対を押し切り、文科大学志望を明確にした〔萩原、2005年、p.36。父は法科大学への進学と将来の内務省入省、県知事就任を望んでいた。〕。1904年9月、東郷は東京帝国大学(現・東京大学)文科大学独逸文学科に進学し、また東郷の師の片山も学習院大学教授として赴任〔萩原、2005年、p.38〕。片山は、自らの師でドイツ文学者の登張信一郎を東郷に紹介し、三人で「三代会」を結成した〔。 1905年(明治38年)5月、大学の文芸雑誌『帝国文学』臨時増刊第二「シルレル記念号」に、フリードリヒ・フォン・シラー作『戯曲マリア・スチュアルト』(マリア・スチュアルトはスコットランド女王メアリー・ステュアートのこと)を題材とした文芸批評が掲載された〔萩原、pp.39 - 41〕。これは東郷の唯一の文芸批評である。また、翌年1月に片山が著した『男女と天才』に登張とともに序文を寄せ、この時に初めて「青楓」の雅号を用いている〔萩原、2005年、p.42〕。東大時代の前半は登張の影響でドイツ文学者を志していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「東郷茂徳」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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