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杵渕 やすお(本名:杵渕康雄・きねぶち やすお、1925年3月28日 - 2014年8月13日)は、東京府東京市浅草区西鳥越町(現・東京都台東区鳥越)出身の漫画家(1960年前後まで)、挿絵画家、童画家、洋画家、元・出版美術家連盟常任理事、日本児童出版美術家連盟(童美連)会員、元・現代童画会審査委員、元・現代パステル協会委員、麻生区美術家協会会員、元・文部省(現・文部科学省)教科書作成委員、元・東京都交通安全ノート作成委員。〔〕 ==年譜== *1925年-3月28日、現・東京都台東区鳥越にて、鞄職人・小谷長次郎と百合子(杵渕かめの養女)との間に四男三女(長男喜八は養子)の三男として生まれる。 *1928年-12月、実母・百合子の養母・杵渕かめ(百合子の実父・鈴木登の妹)と養子縁組のため、小谷から杵渕に改姓。 *1939年-東京市育英尋常高等小学校を卒業。昼間は東京府繊維製品配給株式会社に勤め、夜間は東京保善商業学校(現・保善高等学校)本科夜学課に通う。後に妻となる狩野(かのう)信子とは、職場で知り合う。一時期、結核を患い、千葉県の病院で療養。 *1942年-東京保善商業学校本科夜学課を卒業。 *1944年-徴兵によって大船へ送られる。 *1945年-終戦によって、職場の東京府繊維製品配給株式会社に戻るが間もなく退職し、帽子販売店やバインダー製造店で働く。 *1949年-バインダー製造店を退職し、11月に狩野信子と結婚。信子の実家(現・西新宿)でバインダー製造店を自ら経営する。 *1954年-バインダー製造店を畳む。1962年版日本漫画家名鑑によると「太陽の家絵画研究所に学ぶ」とあるので、この頃のことと思われる。読売新聞掲載の日照館書店の募集広告「漫画を描ける人募集」に応募し採用される。前年の2月に長女が生まれている。この頃、貸本漫画が全盛期であったため、漫画家として生計を立てることを決意。その後、ある偶然の出来事で知り合った宮永岳彦氏によって小学館を紹介されたことが、知名度を上げることとなる。生活の場を中野のアパートに移す。翌年の5月に長男が生まれる。 *1956年-この年に建設された東京都住宅供給公社祖師谷住宅の公募に当たり、世田谷区祖師谷に移る。 *1986年-第11回現代童画展東京都知事賞を受賞。ギャラリーラウレック第1回選抜展ダイヤモンド賞を受賞。 *1987年-第54回神奈川県展横浜市長賞を受賞。 *1992年-第18回現代童画展委員作家賞を受賞。 *1998年-個展「杵渕やすお展~油絵・パステル・水彩~」を開催。(7月2日~7月14日 ギャラリー華沙里) *2001年-3人展「トライアングル2001~油絵・パステル~」を開催。(12月6日~12月18日 ギャラリー華沙里) *2002年-個展「子供のための絵画展Ⅱ-杵渕やすお・童画の世界-」を開催。(1月31日~2月19日 ギャラリー華沙里) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「杵渕やすお」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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