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松井 一郎(まつい いちろう、1964年1月31日 - )は、日本の政治家。大阪府知事(公選第18-19代)、おおさか維新の会代表、大阪維新の会代表。大阪維新の会幹事長、維新の党幹事長、維新の党顧問、日本維新の会幹事長、大阪府議会議員(3期)などを歴任した。住之江競艇場の照明・電気設備関係の工事・保守を一手に請け負う株式会社大通の元代表取締役。父は大阪府議会議長(1996年)を務めた松井良夫。 == 経歴 == 大阪府八尾市で幼少期を過ごす。大阪工業大学高校を退学となり、笹川良一が関係する福岡工業大学附属高等学校に編入、1986年(昭和61年)3月に福岡工業大学工学部電気工学科卒業。関西電力グループのきんでん勤務などを経て、2003年(平成15年)4月13日実施の第15回統一地方選挙において大阪府議会議員選挙に八尾市選挙区から自由民主党の公認を得て立候補し、初当選。以来当選3回。 自民党大阪府議団の政調会長まで務めたが、WTC府庁移転問題を機に自分と考えが違うと言う理由で「自民党維新の会」を結成。 2010年(平成22年)に橋下徹が代表を務める地域政党大阪維新の会に参加して、幹事長に就任。2011年(平成23年)4月10日の第17回統一地方選挙で、松井は橋下徹を市長選挙に出るように説得したが「やるんやったら、知事選には松井先生です。そのパターンでなかったら出ません」と口ではなく行動で示すように言われた。松井は「無理やで」と拒否し続けたが、今度は橋下に説得された。 2011年10月22日の未明に大阪府知事の橋下は府議会議長に10月31日付での辞職願を提出して、大阪府知事の座から退くことを表明した。これにより、任期満了に伴う大阪市長選挙と橋下の辞職に伴う大阪府知事選挙が同年11月27日に同日選として実施されることになった。 翌10月23日に松井は橋下と共同で会見を行い、橋下が大阪市長選挙に立候補して、松井が橋下の後継として大阪府知事選挙に立候補することを発表。それに伴い、大阪維新の会大阪府議会議員団幹事長を退任した。 11月10日に大阪維新の会公認候補として立候補を届け出た。それに伴い大阪府議会議員を自動失職した。 11月27日に大阪府知事選挙にて、前池田市長の倉田薫らを破り初当選。翌日、選挙管理委員会による当選の告示があり第18代大阪府知事に就任した〔。大阪府知事としては初の大阪府議会議員出身者であり、また大阪府出身の人物が知事に就任するのは岸昌以来となる。 2012年(平成24年)には国政政党日本維新の会に参加して、幹事長に就任。 2014年(平成26年)に維新と結いの党が合併してできた維新の党でも引き続き幹事長に就任。 同年末、大阪都構想の実現及び統一地方選挙に専念するために橋下徹の代表辞任とともに松井も維新の党の幹事長を辞任、橋下が党最高顧問、松井が党顧問に就いた。党執行役員会では橋下が代表辞任が了承されたあとで中座したため、橋下は自身が把握しないうちに党最高顧問への就任が決定してしまった。これについて橋下は「就いた覚えない。一番嫌な肩書ですよこれ。死んでも嫌ですよ。名前がもう絶対嫌。」などと発言。松井は「(自分で)名前を考えたら」などと茶化した。 大阪市特別区設置住民投票実施後の2015年(平成27年)5月20日、知事の任期満了まで大阪維新の会幹事長と維新の党顧問の役職を続けることが決定した。 2015年8月27日、維新の党からの離党を橋下徹と共に表明した。 2015年9月26日、大阪維新の会は同年11月実施の大阪府知事選挙に松井を擁立することを正式に決定、松井は再選を目指し出馬することとなった。10月1日、次期知事選挙への立候補を正式に表明した。11月22日、202万5387票を獲得し、元大阪府議会議員の栗原貴子(自民党推薦、民主・共産支援)、元大阪府立高校教諭の美馬幸則を破り再選を果たした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井一郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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