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松井 宗信(まつい むねのぶ、永正12年(1515年) - 永禄3年5月19日(1560年6月12日))は、戦国時代の武将。遠江の国人。今川氏の家臣。遠江二俣城主。通称は五郎八郎、のち左衛門佐。松井貞宗の子。今川義元の近従を勤め、のちには三河・尾張方面の遠征軍指揮官として忠節を積むが、桶狭間の戦いにて戦死した。 == 生涯 == 永正12年(1515年)、遠江松井氏の惣領で遠江国堤城主の松井貞宗・次男として誕生。 家督を継いでいた兄・信薫が病死すると、享禄2年(1529年)に家督および二俣城主を継いだという。今川氏輝、今川義元、今川氏真3代にわたり家臣として仕え、駿府在番衆を務めたほか、今川氏の軍略に従い各地を転戦し、天文16年9月には天野安芸守とともに三河国の田原城攻めの最前で「粉骨無比類」の働きをして主君・義元から感状を受けた。永禄2年(1559年)2月には父・貞宗の知行・代官職を生前譲与される事について、今川氏真から領掌(了承)の旨の判物を与えられている。 永禄3年(1560年)、今川義元の尾張遠征に従軍し、桶狭間の戦いでは、宗信率いる一党は本陣の前備えに配置されていた。織田軍が強襲した際には本陣を守るため、宗信は手勢200名を率いて馳せ戻り懸命に奮戦したが、宗信以下ほとんどが討ち取られたと伝えられる。享年46。 宗信の死後、信薫の子・宗親が二俣城主となったが、叛意を疑われて駿府で誘殺されると、その跡を宗信の子・宗恒が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井宗信」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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