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松平 康英(まつだいら やすひで)は、江戸時代末期(幕末)の旗本、大名。江戸幕府外国奉行、神奈川奉行、大目付、勘定奉行、南町奉行を歴任した後に本家の大名家を相続、奏者番兼寺社奉行、老中となった。陸奥棚倉藩第4代藩主、武蔵川越藩初代藩主。松井松平家12代。川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。旗本時代は松平 康直(まつだいら やすなお)で、本家相続後に康英と改名した。 == 生涯 == 旗本5000石で寄合の松平軍次郎康済の長男として江戸木挽町に生まれる。弘化4年(1847年)12月10日、父の隠居により家督を相続する。当時は諱を康直と名乗った。嘉永4年(1851年)9月から翌5年(1852年)9月まで駿府加番を勤め、安政2年(1855年)7月19日、火事場見廻役へ異動、安政5年(1858年)11月29日には寄合肝煎(3000石以上の旗本の世話役)、同年12月8日に講武所頭取、安政6年(1859年)12月15日、外国奉行となり同時に従五位下石見守に叙任。翌日には神奈川奉行兼任となった。 翌万延元年(1860年)9月15日には外国奉行を罷免され、神奈川奉行専任となる。しかし文久元年(1861年)4月12日には再び外国奉行兼任となり、同年8月21日には江戸・大坂・兵庫・新潟の開市の延期とロシアとの千島・樺太国境画定交渉のために欧州へ行くことを命じられ(文久遣欧使節)、12月22日に交渉使節団副使として欧州各国へ向けて出発し、翌文久2年(1861年)12月11日帰国した。帰国直後の28日に外国奉行専任となり、翌日には300石を加増された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平康英」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Matsudaira Yasuhide 」があります。 スポンサード リンク
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