|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 松 : [まつ] 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) ・ 井 : [い] 【名詞】 1. well ・ 平 : [たいら, ひら] 【名詞】 1. the broad 2. the flat 3. palm ・ 平氏 : [へいし] (n) the Tairas ・ 氏 : [うじ] 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth
三河松井氏(みかわまついし)は、三河国幡豆郡発祥の松井氏。はじめ今川氏や東条吉良氏に仕え、後には徳川家康の家臣となった松井忠次とその一族をさす〔煎本増夫によれば、松井忠次の父忠直は、今川氏の重臣であった遠江松井氏の一族と推定、嫡子忠次は東条吉良家の養子とされた義春の家老であるとしている(参考文献の1、173頁)。〕〔『藩翰譜』において、新井白石も松井金四郎忠直を東条家の家人としている(参考文献の2)。〕。駿河国・遠江国の守護大名で戦国大名化した今川氏に早くから仕えた遠江松井氏(信薫や宗信に代表される)が代々遠州二俣城に居城したのに対し、三河松井氏は三河国幡豆郡吉良庄相場(饗庭)郷に居住し〔相場(饗庭)小山田村の正竜寺に残る寺伝によれば松井氏先祖は松井山城守忠勝が永享12年(1440年)に当地に到り築城して当山祖慶に帰依し松井氏菩提寺としたといい、松井氏の墓がある(参考文献の3、「稠」の項)。〕、天文期より吉良庄の領主東条家に仕えた。このうち松井忠次はこの吉良氏に姻戚関係を持った松平氏に帰属して東条松平氏の成立に寄与、その功績により徳川家康より松平称姓を許された。以後、忠次の系統が支族に至るまで松平を称し、松井松平家と呼ばれた〔「……これより代々支族にいたるまで松平を称す」(寛政重修諸家譜巻第373・清和源氏支流・松井の項の按文)→参考文献の4、321頁。〕。 == 発祥 == 『寛政重修諸家譜』などは初祖を松井忠直(通称金四郎、実名は忠信とも)とし、松平清康・広忠に歴仕して武功ありとするが〔寛政重修諸家譜巻第373・清和源氏支流・松井忠直の項(参考文献の4、321頁)〕、忠直は六条判官源為義の子松井冠者維義、その15代の裔孫・松井為維(惣左衛門)の子という〔寛政重修諸家譜巻第373・清和源氏支流・松井の項の按文(参考文献の4、321頁)〕〔源満政の六代後裔源重行が源頼朝に仕えて山城国綴喜郡松井の地頭となり、その十二代後裔松井経之の二男松井宗之が三河国に移り、その四代後裔が忠直であったともいう。〕。しかし、松井冠者維義を遠祖とする家伝は遠州系松井氏に同じく(維義17代の子孫・松井義行(山城守)の系)〔寛政重修諸家譜巻第590・橘氏流・松井氏の項、按文(参考文献の5、68頁)。〕、元は同族であったと考えられている。『系図纂要』では、六条判官為義朝臣十四男として、下に示すように維義に系を起こしている〔参考文献の6、371-381頁。〕。 ::維義(松井冠者)━季義(蔵人)━為維(惣左衛門)━忠直(金四郎)━康親(周防守)…… また、静岡大学教授の小和田哲男によれば、遠州松井氏の惣領である松井宗能(山城守)の弟の系に掛けて初代・惣左衛門為維、2代・惣左衛門某、3代・金四郎忠直(?-1542)、4代・左近忠次としている〔「松井氏系図」(参考文献の7、246頁)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三河松井氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|