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松井 須磨子(まつい すまこ、1886年(明治19年)3月8日(戸籍上:11月1日)〔岡野和夫「松井須磨子とその生誕日」(『悲劇喜劇』1986年10月)〕 - 1919年(大正8年)1月5日)は、日本の新劇女優。本名、小林正子(こばやしまさこ)。 == 来歴 == 長野県埴科郡清野村(現・長野市松代町清野)に士族小林藤太(旧松代藩士)の五女(九人兄妹の末っ子)として生まれる。数え年6歳の時、上田町の長谷川家の養女となり、1900年上田の尋常小学校を卒業する。しかし養父が亡くなったため実家に戻る。実家に戻った年、実父も亡くなった。数え年17歳の春に麻布飯倉の菓子屋「風月堂」に嫁いでいた姉を頼って上京した後、戸板裁縫学校(現・戸板女子短期大学)に入学する〔『人気役者の戸籍調べ』高沢初風、文星社、1919年、P165〕。 1903年親戚の世話で最初の結婚をするが、病気がちを理由に舅に疎まれ〔〕、1年で離婚している。この頃から平凡な日常から脱却したいと思うようになり女優を志す。この時期に俳優養成学校に願書を提出し面接も受けるが、鼻が低くて顔全体の印象が平坦で華やかさがないことを理由に入学を拒否される。しかし女優の夢が諦めきれなかった須磨子は当時としては最新の技術であった、鼻筋に蝋を注入する隆鼻術(美容整形手術)を受けている。これにより、現在までに知られる顔になった。その後、俳優養成学校へ入学し念願の女優となった。「日本初の整形美人女優」と称されることもある。しかし、後年はその後遺症に苦しめられる。注入した蝋は比較的軟らかいもので、体温程度でも不安定な状態になり鼻筋からずれてしまうことも多かった。その度に自らの手で押さえていたという。そのようなことが頻繁にあったため体も拒絶反応を起こして鼻を中心に顔全体が腫れて炎症を起こすこともあり、時には痛みで寝込むほどであったが、当時は抜去する手術が確立されていなかったため冷水で絞った手拭いで患部を冷やすことしか出来ず耐えるしかなかった。恋仲にあった島村抱月にもその醜態を指摘されることもあったという。 1908年同郷の埴科坂城町出身の前沢誠助と結婚する。東京高師地歴科を卒業した前沢は、その年の11月に「東京俳優養成所」の講師になり、日本史を担当した。 1909年、坪内逍遥の文芸協会演劇研究所第1期生となる。家事がおろそかになることも多く、1910年10月、前沢と離婚。 1911年、『人形の家』の主人公ノラを演じて認められ、1913年、島村抱月と芸術座を旗揚げし、『復活』(トルストイ原作、抱月訳)のカチューシャ役が大当たりし、人気女優となった。須磨子が歌った主題歌『カチューシャの唄(復活唱歌)』(抱月作詞・中山晋平作曲)のレコードも当時2万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。須磨子は日本初の歌う女優となった。 1917年に発売したレコード『今度生まれたら』(北原白秋作詞)では、歌詞の中にある「かわい女子(おなご)と寝て暮らそ」の部分が当時の文部省により猥褻扱いされ、日本における発禁レコード第1号となった。 1918年11月5日、スペイン風邪で抱月が病死すると、2ヶ月後の1919年1月5日、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)にあった芸術倶楽部の道具部屋において自殺(縊死)した〔『松井須磨子とその縊死せし場所『歴史写真. 大正8年2月號』 (国立国会図書館デジタルコレクション)〕〔服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)279頁〕。 抱月と不倫関係にあった須磨子は、遺書で抱月の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたがそれは叶わず、須磨子の墓は長野市松代町清野の小林家墓所(生家の裏山)に、また、新宿区弁天町の多聞院には分骨墓がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松井須磨子」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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