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松内 則三(まつうち のりぞう、1890年7月28日 - 1972年1月31日)は、日本の昭和時代に活動したアナウンサー。日本におけるスポーツ中継の実況アナウンサーの草分け。大相撲、東京六大学野球、職業野球、競馬などのスポーツ中継の実況アナウンスで人気となった。 == 来歴・人物 == 1890年7月28日に東京府(現:東京都)で生まれる。大阪府立北野中学校(旧制)から慶應義塾大学理財科(現:経済学部)を経て日本電灯へ入社するが、1925年にNHKへ入局してアナウンサーに転職。東京放送局に赴任した。 野球中継においては、「ピッチャー振りかぶりました」「打ちも打ったり取りも取ったり」というような、動作を表現する典型を数多く創造した〔尾嶋義之『志村正順のラジオ・デイズ』(新潮文庫)pp.51-54〕。1929年秋季の六大学野球・早慶戦中継〔NHKアーカイブス 〕の終わりで、「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽……」と球場の風景を描写した〔〔橋本一夫『日本スポーツ放送史』(大修館書店)pp.33-34〕。このアナウンスは評判となり、再録〔のSPレコード盤が15万枚の売り上げとなった。松内は毎回、ゲームセットの際にこのアナウンスで終えることを恒例とした〔。 1928年の春場所から始まった大相撲の中継放送において、相撲の実況中継を日本の放送史上はじめて行った〔上掲書、pp.34-36, pp.109-110〕。大相撲中継では、趣味だった俳諧の技術を生かし、実況の合間に力士のしこ名にちなむ川柳や狂歌を即興ではさんだ。長い仕切りで知られた若葉山鐘が立ち上がった際の「若葉山もみじのころに立ち上がり」〔〔、常ノ花寛市が現役を引退した際の「いつまでも馥郁(ふくいく)と咲け常ノ花」などが知られる。 1932年4月17日に、目黒競馬場における帝室御賞典、4月24日に第1回東京優駿大競走(日本ダービー)の実況を務めた。同年行われたロサンゼルスオリンピックでは現地・アメリカ合衆国へ赴き、初の海外から日本へ向けたオリンピック中継を行った〔上掲書、pp.44-51〕。その帰途、国際連盟総会の中継放送を担当するため、長くジュネーヴに滞在〔〔上掲書、p.56〕。 初のプロ野球中継放送となった1936年7月1日の日本職業野球連盟結成記念大会(巨人軍対名古屋軍・早稲田大学戸塚球場)では、和田信賢と掛け合うスタイルで実況を務めた〔上掲書、pp.123-124〕。1940年頃に広島放送局放送部長。 その後はスポーツ中継の第一線から退いたものの、志村正順、北出清五郎などのスポーツアナウンサーを育成した。戦後、仙台放送局長を務めたのを最後に勇退した。 1950年に、和田とともに開局直前の中部日本放送でアナウンス研修を行った。当時のNHKで1年費やす内容を半年で修めさせ、のちに同局で開局第一声を発する宇井昇らを育成した。 1972年1月31日に東京都内の病院で逝去、。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松内則三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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