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松前 徳広(まつまえ のりひろ)は、江戸時代末期の大名。蝦夷地松前藩の13代藩主。 == 生涯 == 天保15年(1844年)3月14日、11代藩主・松前昌広の長男として福山城で生まれる。嘉永2年(1849年)に父が隠居したが、徳広は幼少だったため叔父・崇広が藩主に就任した。嘉永6年(1853年)3月に世子に指名され、安政5年(1858年)12月に従五位下、志摩守に叙位・任官する。 慶応2年(1866年)に崇広が死去したため、その養子として家督を相続した。しかし元々病弱で、さらに精神病でもあったために政務を執れず、さらに松前氏では若年で家督を継ぐ藩主が続いたことから、重臣の専横がとどまらなかった。このため、慶応4年(1868年)7月には鈴木織太郎や下国東七郎ら40名余の家臣団らが重臣の専横に不満を持ち、徳広を擁立して正議隊を結成して謀反を起こした。この謀反で重臣の多くは処罰され、新たに合議局・正議局・軍謀局が創設され、人材の新たな登用なども行なわれるなどしたが、藩内は著しく混乱した。さらに同年10月には榎本武揚らの旧幕府軍が北海道に来襲して館村新城、11月には西在熊石村に敗走し、11月24日には弘前藩領の薬王院に逃れたが、ここで喀血して倒れ、11月29日に死去した。享年25。 長男・修広が幼くして跡を継いだ。 明治29年(1896年)5月20日、贈従四位。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松前徳広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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