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松前 泰広(まつまえ やすひろ)は、江戸幕府旗本。蝦夷地松前藩の2代藩主・松前公広の三男。 寛永19年(1642年)3月、兄・氏広の名代として江戸に参勤をする。正保3年(1646年)12月4日、小姓組に列し、1000俵を賜り旗本となる。正保5年(1648年)に氏広が没した際、後継の高広が若年のため、これを後見する。 寛文9年(1669年)、シャクシャインの戦いが勃発した時、藩主・松前矩広が11歳の若年のため、幕府より討伐軍の総大将とされ、8月10日に子の嘉広、(直広)当広と共に松前に入る。国縫の家老・蠣崎広林(蔵人)が率いる部隊と9月4日に合流し、1500丁の鉄砲をもってシャクシャインを敗走させた。そして10月22日、ビボク(現在の新冠町)でシャクシャインが和睦のために泰広の陣を訪れ酒宴を催した際、佐藤権左衛門の謀略によって殺害した。その後、蠣崎広林に命じてシブチャリを攻撃した。翌年、江戸に戻って蜂起鎮圧の旨を将軍に報告した。怠りなく日頃務めているので黄金2枚を賜る。また、アイヌを平定したため、常陸国真壁郡に500石を加増される。寛文12年(1672年)7月、蜂起以来抗戦を続けてきた浦川(現浦河町)のアイヌが和睦に応じて使者を国縫へ派遣したため、幕府より松前目付に任命され、3人の子を伴い松前に行き、事態を収束させた。 延宝3年(1675年)1月26日、使番より、5月19日日光目付となり、日光に赴く。12月26日、布衣を着ることを許される。延宝5年(1677年)4月19日、再び日光に赴き目付代となる。翌延宝6年(1678年)4月11日、松平乗久へ肥前国唐津城の城地引渡役を務める。9月4日、職を辞して小普請となる。 延宝8年(1680年)、56歳で没する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松前泰広」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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