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松宮清長(まつみや きよなが、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官途は玄蕃允。長講堂領吉田荘の代官を務めた〔福井県史 通史編2 http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T2/T2-2-01-04-06-02.htm〕。若狭武田氏家臣。 == 生涯 == 若狭守護の武田義統に仕えた。遠敷郡東部に勢力を張り、膳部山城城主の他、瓜生城主として瓜生・井ノ口・天徳寺、熊川を領す〔若州観跡録・若狭国誌〕。松宮氏被官だった沼田氏が清延の時代に熊川城を築くと、永禄12年(1569年)、沼田一族を攻め、息子の松宮左馬亮を熊川城主とした。結果、新道・河内・熊川を得て三宅庄まで進出し、近江から若狭へ入る街道筋を掌握した〔若狭記〕。元亀元年(1570年)4月22日、織田信長が朝倉義景討伐のため越前へ侵攻する際(第一次越前侵攻)、若狭国内の諸将とともに信長を出迎え、熊川城を「若州熊川松宮玄蕃所」として提供する〔信長公記〕。粟屋勝久らと共に敦賀の手筒山城攻めを始め信長軍として活躍し、元亀4年(1575年)の朝倉義景攻め(第二次越前侵攻)に参陣。天正3年(1575年)7月1日、武田元明に随従して上京、相国寺にて信長に謁見した〔信長公記〕。同年8月の越前一向一揆討伐戦に若狭衆として参加。海賊衆を率いて一揆と戦う。その後の消息は不明だが、明智光秀の乱に与し武田元明と共に没落したとの説もある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松宮清長」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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