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松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日)〔佐藤編(2011)、p.248-249、松尾芭蕉関係年表〕)は、江戸時代前期の俳諧師。現在の三重県伊賀市出身。幼名は金作〔佐藤編(2011)、p.30-34、芭蕉の生涯 伊賀上野時代(寛永~寛文期)〕。通称は甚七郎、甚四郎〔。名は忠右衛門宗房〔。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。北村季吟門下。 俳諧(連句)の芸術的完成者であり〔東明雅『芭蕉の連句』(岩波新書)〕蕉風と呼ばれる芸術性の極めて高い句風〔東聖子 『蕉風俳諧における〈季語 ・季題〉の研究』(明治書院、2003年)、ISBN 4-625-44300-8-山本健吉文学賞(第4回)受賞〕を確立し、後世では俳聖〔佐藤編(2011)、p.247、あとがき〕として世界的にも知られる、日本史上最高の俳諧師の一人である。芭蕉自身は発句(俳句)より俳諧(連句)を好んだ。 芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『おくのほそ道』という書物が有名。 == 生涯 == === 伊賀国の宗房 === 伊賀国(現在の三重県伊賀市)で生まれたが、その詳しい月日は伝わっていない〔。出生地には、赤坂(現在の伊賀市上野赤坂町)説〔 と柘植(現在の伊賀市柘植)説の2説がある。これは芭蕉の出生前後に松尾家が柘植から赤坂へ引っ越しをしていて、引っ越しと芭蕉誕生とどちらが先だったかが不明だからである。 阿拝郡柘植郷(現在の伊賀市柘植)の土豪一族出身の父・松尾与左衛門と、百地(桃地)氏出身とも言われる母・梅の間に次男として生まれる〔。兄・命清の他に姉一人と妹三人がいた〔。 松尾家は平氏の末流を名乗る一族だったが、当時は苗字・帯刀こそ許されていたが身分は農民だった〔饗庭(2001)、p.16-21、1.芭蕉、伊賀上野の頃〕。 明暦2年(1656年)、13歳の時に父が死去〔。 兄の半左衛門が家督を継ぐが、その生活は苦しかったと考えられている。そのためであろうか、 異説も多いが寛文2年(1662)に〔若くして伊賀国上野の侍大将・藤堂新七郎良清の嗣子・主計良忠(俳号は蝉吟)に仕えたが、その仕事は厨房役か料理人だったらしい〔。2歳年上の良忠とともに京都にいた北村季吟に師事して俳諧の道に入り〔、寛文2年の年末に詠んだ句 が作成年次の判っている中では最も古いものであり、19歳の立春の日に詠んだという〔。寛文4年(1664年)には松江重頼撰『佐夜中山集』に、貞門派風の2句が「松尾宗房」の名で初入集した〔。 寛文6年(1666年)には上野の俳壇が集い貞徳翁十三回忌追善百韻俳諧が催され、宗房作の現存する最古の連句がつくられた。この百韻は発句こそ蝉吟だが、脇は季吟が詠んでおり、この点から上野連衆が季吟から指導を受けていた傍証と考えられている〔。 しかし寛文6年に良忠が歿する。宗房は遺髪を高野山報恩院に納める一団に加わって〔菩提を弔い〔、仕官を退いた〔。後の動向にはよく分からない部分もあるが、寛文7年(1667年)刊の『続山井』(湖春編)など貞門派の選集に入集された際には「伊賀上野の人」と紹介されており、修行で京都に行く事があっても、上野に止まっていたと考えられる〔。その後、萩野安静撰『如意宝珠』(寛永9年)に6句、岡村正辰撰『大和巡礼』(寛永10年)に2句、吉田友次撰『俳諧藪香物』(寛永11年)に1句がそれぞれ入集した〔。 寛文12年(1672年)、29歳の宗房は処女句集『貝おほひ』を上野天神宮(三重県伊賀市)に奉納した。これは30番の発句合で、談林派の先駆けのようなテンポ良い音律と奔放さを持ち、自ら記した判詞でも小唄や六方詞など流行の言葉を縦横に使った若々しい才気に満ちた作品となった〔。また延宝2年(1674年)、季吟から卒業の意味を持つ俳諧作法書『俳諧埋木』の伝授が行われた〔。そしてこれらを機に、宗房は江戸へ向かった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松尾芭蕉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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