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松山省三 : ミニ英和和英辞書
松山省三[まつやま しょうぞう]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [やま]
 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point 
: [み]
  1. (num) three 

松山省三 : ウィキペディア日本語版
松山省三[まつやま しょうぞう]
松山 省三(まつやま しょうぞう(せいそう)、1884年9月8日 - 1970年2月4日)は洋画家カフェー・プランタンの経営者。
==来歴・人物==
広島県広島市出身。父・渡辺又三郎広島藩主を務めた浅野氏織田信長豊臣秀吉徳川家康三英傑に仕えた浅野長政を祖とする。なお、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家はその分家にあたる。〕の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり市議会議長、第8代広島市長を務めた〔自著 『女形半世紀』 新日本出版社 1991年 34頁。(1889年9月-1890年10月議長、1909年9月-1910年7月市長)〕〔自著 『河原なでしこ』 理論社 1955年 23頁。〕〔『広島県大百科事典<下巻>』 中国新聞社 1982年 508頁。〕。省三は三男であった。
日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。
リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者河原崎国太郎である〔河原崎国太郎著 『河原なでしこ』 23頁。〕〔河原崎国太郎著 『演劇とは何か』 ポプラ社 1974年 10、11頁。〕。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという〔河原崎国太郎『女形芸談』P257。〕。実父は広島市長在職中の1910年7月に病死した。
画業では白馬会の岡田三郎助に師事、院展などに出品した。パリに憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の劇作家小山内薫に勧められ、美術学校時代の教授だった黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。プランタンは仏語を意味し、親友小山内が命名した〔『朝日新聞be』「ことばの旅人」2005年2月5日〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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