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松山 省三(まつやま しょうぞう(せいそう)、1884年9月8日 - 1970年2月4日)は洋画家、カフェー・プランタンの経営者。 ==来歴・人物== 広島県広島市出身。父・渡辺又三郎は広島藩主を務めた浅野氏〔織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の三英傑に仕えた浅野長政を祖とする。なお、忠臣蔵で有名な赤穂藩浅野家はその分家にあたる。〕の荒小姓で伊藤博文の弟子。維新後、代言人から政治家になり市議会議長、第8代広島市長を務めた〔自著 『女形半世紀』 新日本出版社 1991年 34頁。(1889年9月-1890年10月議長、1909年9月-1910年7月市長)〕〔自著 『河原なでしこ』 理論社 1955年 23頁。〕〔『広島県大百科事典<下巻>』 中国新聞社 1982年 508頁。〕。省三は三男であった。 日本中学校を経て東京美術学校(現東京芸術大学)西洋画撰科に入学、1907年卒業(卒業時は渡辺姓。その後、弁護士・松山広居に養子入り)。 リベラリストだった省三は政治家になることを嫌がり、画家になるべく家族を連れて1909年上京。妻・英子は当時妊娠7ヵ月で、上京直後に生まれた長男が後の歌舞伎役者、河原崎国太郎である〔河原崎国太郎著 『河原なでしこ』 23頁。〕〔河原崎国太郎著 『演劇とは何か』 ポプラ社 1974年 10、11頁。〕。1909年11月に小山内薫が主宰した自由劇場の公演で、他の美術学校関係者とともに背景画を担当したという〔河原崎国太郎『女形芸談』P257。〕。実父は広島市長在職中の1910年7月に病死した。 画業では白馬会の岡田三郎助に師事、院展などに出品した。パリに憧れ留学が夢だったが、義父が小豆相場に失敗して断念。親友の劇作家・小山内薫に勧められ、美術学校時代の教授だった黒田清輝らに聞かされたパリの「カフェ」のような、文人や画家達が集い芸術談義をできる場所を作りたいと、平岡権八郎とともに1911年3月、京橋日吉町(現・銀座8丁目)に「カフェー・プランタン」を開業した。プランタンは仏語で春を意味し、親友小山内が命名した〔『朝日新聞be』「ことばの旅人」2005年2月5日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松山省三」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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