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松山 英夫(まつやま ひでお、1906年3月27日 - 1986年4月11日)は、日本の映画プロデューサー、実業家である〔''松山英夫''、''jlogos.com'', エア、2012年12月20日閲覧。〕〔''松山英夫''、日本映画データベース、2012年12月20日閲覧。〕〔''松山英夫''、日本映画情報システム、文化庁、2012年12月20日閲覧。〕〔''松山英夫''、allcinema, 2012年12月20日閲覧。〕〔''松山英夫''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2012年12月20日閲覧。〕〔マキノ、p.338-374.〕〔映画年鑑, p.578.〕。マキノトーキー製作所企画部長、大映専務取締役、ダイニチ映配取締役社長を歴任した。和製英語「ゴールデンウィーク」と「シルバーウィーク」の名付け親として知られる〔。 == 来歴・人物 == 1906年(明治39年)3月27日、愛知県宝飯郡蒲郡町(現在の同県蒲郡市)に生まれる〔〔〔。 1928年(昭和3年)、関西学院を卒業する〔。 満29歳であった1935年(昭和10年)12月末、太秦帷子ヶ辻中開町(現在の右京区太秦堀ヶ内町)に、牧野省三の長男であるマキノ正博がトーキー(映音式)のための新しい撮影所を建設した新会社、マキノトーキー製作所を設立、これに入社して「企画部長」に就任、翌年1936年(昭和11年)1月、同社の陣容を発表した際に名を連ね、同部のメンバーには岡本潤、中川信夫、坂田重則らがいた〔〔。やがて同社は経営が悪化し、1937年(昭和12年)4月に解散することになり、従業員のための退職金は、中川信夫を監督として製作した『旗本五人男 大江戸の鳶』の配給権を松山が東京に行って売却して用立てた〔。 解散後は、日活に移籍、関西支店宣伝部長に就任した〔。1940年(昭和15年)には、日活京都撮影所企画部長に就任した〔。1942年(昭和17年)1月27日、戦時統合により大映が発足し、日活京都撮影所は大映京都撮影所となり、曾我正史所長の下で同撮影所企画部長となる〔。 第二次世界大戦終結後、1949年(昭和24年)1月、『キネマ旬報』誌上に『日本映画についての反省と抱負』を発表する〔日本映画についての反省と抱負 、国立国会図書館、2012年12月20日閲覧。〕。その後、京都撮影所次長、取締役所長を経て、1951年(昭和26年)、大映発足10周年を記念し、『大映十年史』を発行するにあたり、当時宣伝企画部長であった松山がこれを編纂した〔大映十年史 、国立国会図書館、2012年12月20日閲覧。〕。同年5月5日、松竹と競作して同日公開することになった映画『自由学校』のプロモーションにあたり、この5月の連休を松山が「ゴールデンウィーク」と名付け、同年からそう呼ばれるようになった〔〔、2012年12月20日閲覧。〕。同作はいずれも好成績を残し、翌1952年(昭和27年)、松山は常務取締役に就任する〔。 1961年(昭和36年)3月、日本映画製作者協会(現在の日本映画テレビプロデューサー協会)の三代目理事長に就任、1964年(昭和39年)5月には、佐藤一郎にその座を譲った〔歴代 理事長・会長 、日本映画テレビプロデューサー協会、2012年12月20日閲覧。〕。 1970年(昭和45年)6月、配給会社・ダイニチ映配を発足、当時大映の専務取締役であった松山が社長に就任、日活常務取締役の壺田重三が副社長に就任した〔石割ほか, p.166.〕。1971年(昭和46年)5月、松山は病気を理由に同社社長を退任した〔。大映は同年倒産、12月28日上場廃止となった。 1986年(昭和61年)4月11日、心不全のため死去した〔。80歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松山英夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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