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松山 重治(まつやま しげはる、生没年不詳)は、戦国時代、摂津国の武将。通称は、新介、新太郎。 == 生涯 == 松山新介(重治)は堺の人であり、始め本願寺の番士だったが、その後、松永久秀及び三好長慶に仕えた。松山新介は弁舌爽やかであり、更に小皷、尺八、早歌等の芸能も巧みであって座興を盛り上げたため、「堺の名物男」としてもてはやされたと伝わる〔『堺鑑』(仕官の項)〕。 永禄4年(1561年)11月の将軍地蔵山の戦いでは、松山新介の家臣であり「鎗中村」と称された中村新兵衛高続が、六角義賢の家臣・永原安芸守を討ち取っており〔『常山紀談』〕、永禄5年(1562年)5月の教興寺の戦いでは安宅冬康を補佐し、畠山高政の率いる根来寺衆と戦い勝利している。三好家では約五千石を与えられて二千人の兵を率いており〔『太閤記』〕、松永久秀、鳥養貞長、野間長久、野間康久と共に三好政権を代表する家臣の一人であった〔天野・152-153頁〕。 三好家の没落後は織田信長に仕え、天正10年(1582年)1月の高野山攻めに参加している〔『紀伊続風土記』〕。この時、伊都郡内に多和城を築いた〔『二見文書』〕。その後の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松山重治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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