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松岡 時敏(まつおか ときとし、1815年2月4日(文化11年12月26日)- 1877年(明治10年)11月6日〔『三百藩家臣人名事典 6』 546頁。〕〔『明治維新人名辞典』 913頁では「11月5日」。〕)は、幕末から明治期の土佐藩士、法制学者、文部官僚。元老院議官。初名・敏〔『明治過去帳』新訂初版、111頁。〕。字・欲訥〔『明治維新人名辞典』 913-914頁。〕。号・毅軒、毅堂〔。通称・七助〔。 == 経歴 == 土佐国高岡郡日下村(現日高村)で、土佐藩郷士・松岡甚吾の長男として生まれる〔〔。その後、高知城下北奉公人町に転居〔。江戸に遊学し安積艮斎の指導を受ける〔〔。安政に入り吉田東洋に用いられ山内容堂の侍読となり、藩の法典『海南政典』と土佐藩史の編纂に従事し、『藩志内篇』を執筆した〔〔。 明治維新後、新政府に出仕し明治元年11月2日(1868年12月15日)御雇・学校取調御用掛に就任〔『国立公文書館所蔵 勅奏任官履歴原書 上巻』381-384頁。〕。以後、昌平学校掛、同校頭取心得、学校権判事、学校判事、大学大丞、大史・制度取調専務、文部権大丞兼文部中教授、文部大丞などを歴任し〔、学校制度の整備を担当〔。明治5年4月30日(1872年6月5日)左院に転じ中議官に就任。その後、二等議官となり、制度御用掛、職制章程等取調、国憲編纂掛、地方官会議御用掛を務めた〔。 1875年4月14日、左院が廃止され、同月25日に代って設置された元老院の議官に就任〔。1877年11月に病のため在任中に死去した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松岡時敏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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