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松岡 鼎(まつおか かなえ、1860年11月15日(万延元年10月3日) - 1934年(昭和9年)1月28日)は、松岡5兄弟(柳田國男、井上通泰、松岡静雄、松岡映丘)の長男で医師。父は儒者松岡操(約斉)。 == 略歴 == 師範学校を卒業後、19歳にして昌文小学校(現在の田原小学校)の校長に就任するが、後に東京帝国大学に入学・卒業し医師資格を得、千葉県布佐町(現・我孫子市)に住む。 20歳で家督を継ぎ近くの村出身の女性と結婚したが離婚。原因はひとえに「小さな家」〔柳田國男生家・記念館(兵庫県神崎郡福崎町辻川)に復元保存している。〕のためであった。 最も長命だった弟柳田國男は、晩年に口述筆記の回想記『故郷七十年』〔『故郷七十年』(神戸新聞総合出版センター「のじぎく文庫」、新装版2010年)を、筆記した宮崎修二朗(神戸新聞記者で、同文庫編集長)の回想記(『定本 柳田國男集 月報33』のち同.資料編 第1巻)参照〕において、「長兄は二十歳で近村から嫁をもらった。しかし私の家は二夫婦住めない家だった。母がきつい、しっかりした人だったから、まして同じ家に二夫婦住んでうまくいくわけがない。『天に二日なし』の語があるように、当時の嫁姑の争いは姑の勝ちだ。わづか一年ばかりの生活で兄嫁は逃げて帰ってしまった」。またこの事で、「この家の小ささ、という運命から、私の民俗学への志も源を発したといってもよい」とも述べ、國男の学問にも大きな影を落とした〔宮崎修二朗の著書『柳田国男 その原郷』(朝日選書、初版1978年)にも詳しい。他に『柳田國男トレッキング』(編集工房ノア、2000年)がある〕。 また回想記『故郷七十年』では、「昔は娘が婿をとっても必ず主人夫婦とは別の所に寝たものである。襖を隔てて寝息までききとれる同じ家に若夫婦を住まわせた私の親たちも無謀であったし、仲人をした村の物わかりのいい人々も乱暴であった」、「これは私の家の歴史を語るのではなく、古い制度の変遷の無造作、どう変更すべきかを考えなかった、平たくいえば民俗学のなさを物語っているわけである」とも述べている。 傷心の鼎は、23歳で上京し東京帝国大学(東京大学)医学部別科に入学、四年後卒業し翌年に茨城県布川町で開業する。開業前には茨城の旧家から嫁をもらい2度目の結婚をするが、妻は後に自殺したと伝えられる。当時千葉県検見川で医院を開業していた海老原精一が、その妻の実家である小川邸の敷地内の離れに鼎を住まわせ、済衆医院を開業させた(現在は「柳田國男記念公苑資料館」)。このため経済的に余裕のできた鼎は、弟の國男、静雄、両親を引き取った。國男はこの小川家の土蔵に納められた、多くの書物を乱読し、日本民俗学の手引書的な著作となった、赤松宗旦『利根川図志』(國男が校訂し岩波文庫、初版1938年)などもこの土蔵で見聞したと伝えられる。 後年は、千葉県会議員、布佐町長、千葉県医師会長などを歴任。郷土の名士として地方自治に大きな貢献を行ったが、國男は『故郷七十年』で、「一生を酒を唯一の慰めにして、他郷に居る寂しさを逃れてゐたのが兄の境遇であった」と回想している。があるとき、貞明皇后に松岡兄弟の話題を提供した者があり、その際うっかり「あそこは4人兄弟がありまして、それぞれが何か仕事をしております」と話したところ、皇后が「もう1人、上のが田舎にいるはずだ」というのを、鼎は聞き「それでもう本望」と涙をこぼし喜んだとも述べている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松岡鼎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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