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松平 乗友(まつだいら のりとも)は、三河奥殿藩の第4代藩主。奥殿藩大給松平家6代。 == 生涯 == 宝暦10年(1760年)10月22日、第3代藩主・松平乗穏の次男として生まれる。兄の乗統が早世したため、安永5年(1776年)10月19日に世子になる。天明2年(1782年)11月21日、父の隠居で家督を継ぎ、12月18日に従五位下・兵部少輔に叙位・任官する。 天明3年(1783年)に浅間山の噴火が起こると大被害を受け、救済に務めた。直後の天明の飢饉でも被害を受けたが、餓死者を出さずに解決している。しかし天明5年(1785年)には大坂加番に任じられるなど、相次ぐ出費による藩財政の悪化で、天明6年(1786年)と寛政元年(1789年)に倹約令を出した。寛政元年(1789年)9月21日には大隅守に遷任する。寛政2年(1790年)2月、36か条の5ヵ年倹約令を出すが、直後の3月6日に弟で養子の乗尹に家督を譲って隠居した。 しかし乗尹が病弱だったため、隠居後も藩政の実権を握って政務を行なった。文化元年(1804年)7月23日に剃髪して大隅入道と号した。享和2年(1802年)12月2日に乗尹が隠居すると、自らの次男・乗羨を第6代藩主に擁立して藩政の実権をなおも掌握した。しかし晩年には側室のてる(知止院)が9人の男子、4人の女子を産んでいたことから藩の権力を掌握するようになり、それによって奥向きの出費が増大して藩財政が悪化し、さらに乗友とも対立するようになったため、乗友はてるやその側近らを信濃に配流している。 文政7年(1824年)10月4日に死去した。享年65。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平乗友」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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