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松平 信光(まつだいら のぶみつ/しんこう)は、室町時代中期から戦国時代初期頃の武将。三河松平氏の第3代当主で、岩津松平家の祖。 信光は、『朝野旧聞裒藁』や江戸期の系譜類は第2代当主・松平泰親の子とされるが、『松平由緒書』では初代当主・松平親氏の子であるとする。生母は賀茂氏の系統の松平信重の娘とする。当時の資料では源姓新田氏、あるいは賀茂朝臣を称していたことが知られる。 == 生涯 == 松平氏当主として系譜の史料で実在が確認できるのは信光からである。信光以前の系譜は確証が乏しいため、松平氏勃興の事情は未検証である。 信光は三河の土豪かつ被官で、応仁の乱頃には室町幕府の政所執事伊勢貞親に仕えたと言われる。寛正元年(1461年)保久城の山下庄左衛門を滅ぼす〔『中世城館跡調査報告Ⅱ』,『額田町史』P132~P133 〕〔「額田町のあゆみ」 岡崎教育ネットワーク〕。 長禄2年(1458年)、駿河今川氏の分家関口氏の関口満興の岩略寺城を攻め、落城後に十一男の親則を城主として入れた。以降は、岩略寺城に近く満興の弟・長沢直幸の居城だった北側の長沢城を居城と定めたため、氏族は長沢松平氏とも言われ、以降の岩略城は長沢山城とも呼ばれている。 寛正6年(1465年)5月、三河守護細川成之の要請により、貞親の被官として8代将軍足利義政の命により額田郡一揆を鎮定している(『親元日記』)。 信光は、同じく伊勢氏の被官であり、東三河の有力武将である戸田宗光に娘を嫁がせた他、応仁の乱では東軍に属して西軍方である畠山氏一門の畠山加賀守が拠る安祥城を奇襲しこれを奪った。戦国時代に入ると安祥に進出して西三河に勢力基盤を築いて戦国大名としての松平氏の基礎を築き上げた。滝村万松寺や岩津信光明寺などを建立し、安祥城で逝去した。逝去により家督は三男の親忠が継いだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平信光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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