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松平 典則(まつだいら つねのり)は、武蔵川越藩の第5代藩主。直基系越前松平家9代。 == 生涯 == 天保7年(1836年)1月23日、第4代藩主松平斉典の四男として江戸で生まれる。長兄の典常(のりつね)が早世したのに伴って、弘化3年(1846年)11月27日に世子となり、嘉永2年(1849年)12月に名を典術(つねやす)から典則と改名した。嘉永3年(1850年)、父の死去により家督を継ぐ。幕命により、外国船の到来に備えて相模湾の警備を務め、嘉永6年(1853年)のペリー来航の際も警護を務めている。 嘉永7年(1854年)8月13日、眼病を理由に家督を養子の直侯に譲って隠居する(この時はまだ実子の益(すすむ)、鋭(さとし)、基則は生まれていなかった)。安政4年(1857年)に静寿斎と号した。その後は川越城三の曲輪で隠居生活を送りながらも、「前君様」として藩政に影響力を持った。第7代藩主・直克(直侯の養子)が上野前橋藩に移封になると、それに従って前橋城三の丸に移っている。明治5年(1872年)に前橋城が前橋県庁になると柿の宮へ移り、明治10年(1877年)10月に東京へ移った(この間の明治8年(1875年)に三男の基則が生まれた)。 明治16年(1883年)7月24日に死去した。享年48。 ちょうど翌1884年には三男の基則が松平直方(直克の養子)から家督を継承している。 江戸時代後期以後近代までの直基系越前松平家の継承関係を、実系で示せば以下の通り。 *数字は直基系越前松平家の代数を示す。 *点線は婚姻関係を示す。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松平典則」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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